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平清盛ゆかりの地 in京都 その5 忠盛灯籠 in 八坂神社  

2012年 01月 30日

このシリーズ、しばらく中断していましたが久しぶりに再開します。

本日は平清盛の父平忠盛に纏わる忠盛灯籠です。

設置されている場所は八坂神社の摂社 大神神社の左手にある忠盛灯籠を
写真紹介します。昨日(2012-1-29)雪がちらつく京都での取材写真です。





上の2枚の写真が八坂神社内にある忠盛灯籠です。
撮影日:2012-1-29

現地の説明書きより引用(一部記述変更委)させていただきます。

永久年間(1113~1118年)の頃、白河法皇が祇園の女御(にょうご)の
許(もと)に赴(おもむ)かれようとしてこのあたりを通られた時、折りしも
五月雨(さみだれ)の降る夜で前方に鬼のようなものが見えた。
法皇はお供の平忠盛に、鬼のようなものを討ち取ることを命じられたが、
忠盛は討ち取ることはせず生け捕りにしたところ、
油壷(あぶらつぼ)と松明(たいまつ)とを持ち燈篭に燈明(とうみょう)を
献(たてまつ)ろうとしていた祇園の社僧であった。
雨を防ぐ為に被っていた蓑が灯(ともしび)の光を受けて銀の針のように
見えたのであった。
忠盛のとったこの思慮深い行動に人々は感嘆したという。
この灯籠はその時の灯籠であるといわれている。


平家物語 巻6 祗園女御に出てくる話です。

平家物語では下記のように書かれています。(部分抜粋)

またある人がいうには、清盛は忠盛の子ではなくて、本当は白河院の皇子であった
のだ、という話があります。
そのわけは、去る永久の頃、忠盛を殿上人にまで昇格させた鳥羽上皇がまだ
天皇だった頃、宣旨などは下されていなかったのですが、世の人々が祗園の
女御と呼んでいる女性がいて、白河院に寵愛されていました。
京都東山の麓の祗園辺りに住んでいたのでそう呼ばれていたのです。
白河院はいつもこの女御のもとへ御幸になっておられました。
あるとき白河院が殿上人数名と院の御所の警護に当たる北面の武士を
数名連れてお忍びで通っていた時のことです。
時は五月二十日過ぎのまだ宵の事で、目に何かが当たってもわからぬ程の
暗闇ではあるし、その上五月雨まで降っていたのであたりを尚一層暗くしていました。
例の女性の家の近くに御堂があって、その御堂の近くまで来た時、五月雨の降る
夜の闇の中できらりと光るものがありました。
辺りが暗かったせいもあって、はっきりとは確認できなかったのですが、
どうやら頭は銀の針を磨いたようにきらめき、左右の手と思しきものを差し上げ、
片手には槌のようなものを持ち、もう片手には光るものを持っていました。院も臣も、

「ああ恐ろしい。これは本当の鬼らしい。手に持っているのは噂の打出の小槌と
いうものじゃろう。どうしたらよいものか」

と一行が騒ぎあっていました。そこで、白河法皇が供の中にいた、当時はまだ
北面の武士の中でも最下級に属する武士であった忠盛をお呼びになって、

「供の一行の中で度胸があるのはお前ぐらいしかいなさそうじゃ。あのものを
射殺すなり、斬るなりしてくれまいか」

と言われたので、忠盛はつつしんで仰せを承って、怪しいもののほうへ向かって
行きました。
心の内では、
「このものは、さして強い相手とは思われぬ。あるいは狐か狸が化けている
のかもしれぬ。正体を確認せぬままにこれを射殺したり斬り殺したりしては
後悔するだろう。生け捕りにするか」

と思いつつ歩み寄って行きました。
忠盛がじっと茂みに潜んで様子をうかがっていると、相手はしばらくしては、
さっと光り、二、三度繰り返し光りました。そこへ、忠盛が走り寄って、
はっと飛びかかり、むずとばかりに組みつきました。
組まれた相手は、

「これはどうしたことだ?」

と驚きの声を発しました。
相手は狐でも狸でもなく人間でありました。みなが一斉に近づき火をかざして
見てみると六十歳ばかりの老僧でした。
詳しくいうと、寺の掃除など雑用を務める承仕法師で、寺の御堂に、お灯明を
もっていこうと手瓶というものに油をさして持ち、片手には素焼きの陶器に
火を入れて持っていたのでした。雨が盛んに降っていたので、濡れまいとして
頭に小さな麦藁で編んだ笠を被っていたために、濡れた麦藁の一本一本が
素焼きの陶器に入れた火に反射し光って銀の針のように見えたのでした。
ようやく事の真相がはっきりとしました。

「これを射殺したり斬り殺したりすればたいそう後悔したことであろう。
忠盛の振る舞いようは、まことにもって思慮深いことである。
弓矢をとる身、武士という者は、まことに殊勝なものである。かくありたいものじゃ」

と白河法皇はいたく感心され、忠盛はその功により、あれほどご寵愛であったと
評判の祗園女御を法皇から賜ったのでありました。

 実はそのときすでに、女御の腹の中には白河法皇の子供がいたというのです。
これを知られた白河法皇は、

「生まれた子が女子ならば我が子にしよう。男子ならば忠盛の子として武士に育てよ」
と言われました。
女御は後者つまり男子を生みました。忠盛はこのことを法皇に奏上しようとその機会を
うかがっていたのですが、適当な機会がなく、伸び伸びになっていたところ、
あるとき法皇が熊野へ御幸になりました。紀伊国糸鹿坂というところに御輿を下ろし、
しばらく休憩していたところへ、薮に山芋の子が無数に生えていたのを忠盛が
袖にたくさん入れて、法皇の御前へ参上し、

 いもが子ははう程にこそなりにけれ

(山のいもの子はつるがはうほどにたくさんなっています。 
※妹(いも)すなわち、女御の生んだ子は這うほどに成長しましたよ)

と申したところ、白河法皇はすぐおわかりになり、

 ただもりとりてやしなひにせよ

(ただその山のいもの子をたくさん取って、養いの糧にせよ ※忠盛が引き取って養子にせよ)

とおつけになりました。それ以後忠盛は男子を自分の子として育てました。
この男子は元気がよく、夜泣きが激しかったのですが、これを耳にした白河法皇は

 よなきすとただもりたてよ末の代に
         清くさかふることもこそあれ


(夜泣きをしても、忠盛よ、ただお守りをして養育してくれ。
後になって清く盛える事もきっとあるぞ)

と、一首の御製をお詠みになられて忠盛に下されました。忠盛がこの御歌から
清盛という名を付けたといいます。
清盛は十二歳で兵衛佐になり、十八歳で四位になり四位の兵衛佐となった
ことに対し、事の詳細をよく知らない人は、

「華族の家柄出身者ならばこのようなこともあろうが、なぜ武家出身のものが」

と不思議がったのですが、鳥羽上皇は事情を御存知だったので、

「清盛の血筋は、他の人には負けないのだよ」

と笑っておられたということです。


# by seiyo39 | 2012-01-30 08:45 | 京都情報 | Trackback | Comments(0)

難波宮下層遺蹟から出土の石製垂飾  

2012年 01月 29日

2012-1-27訪問の大阪歴史博物館の展示より、本日は
難波宮下層遺蹟から出土の石製垂飾を取り上げます。
展示のふりがなでは垂飾(すいしょく)と書かれています。
たれかざりと呼ぶケースもあるようです。


上の写真が難波宮下層遺蹟から出土の石製垂飾です。
古墳時代中~後期 5~6世紀

西日本での出土は珍しいそうです。石製垂飾は主に東日本で出土。
祭祀の場で用いられたものか?



# by seiyo39 | 2012-01-29 06:24 | 大阪情報 | Trackback | Comments(0)

難波宮の発掘の功労者大阪のシューリマン 山根徳太郎博士  

2012年 01月 28日

昨日(2012-1-27)にNHK大阪支局に隣接してある大阪歴史博物館を見学
する機会があった。

大阪歴史博物館の10階からは難波宮を一望出来、そこに大阪のシューリマンと
言われている山根徳太郎博士の銅像がその姿を見守っています。


上の写真が山根徳太郎氏の銅像です。
山根徳太郎氏についてWikipediaより引用させていただきます。
山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - 1973年7月28日)は、
日本の考古学者。文献史料に記載されていたが所在地が不明のままであった
難波宮の研究を行い、難波宮の大極殿跡を発掘した。
生涯
1889年(明治22年)、大阪市西区に生まれる。
大阪府立北野中学校(現・北野高等学校)、東京高等師範学校地理歴史部卒業。
大阪市民博物館歴史担当、中学校教師などを経て京都帝国大学文学部史学科卒業。
同大学院に在学し1928年(昭和3年)大阪商科大学(現・大阪市立大学)予科教授
に着任、第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)新制大阪市立大学法文学部
(現・文学部)教授となる。

1952年(昭和27年)の定年退官後は難波宮発掘に力を注ぎ、1961年(昭和36年)
に後期・難波宮の大極殿跡を発見。
難波宮大極殿発見時、「われ幻の大極殿を見たり。」という名言を残した。

1963年(昭和38年)『難波宮址の研究』で文学博士、1964年(昭和39年)に
紫綬褒章を受章。1973年(昭和48年)脳軟化症により死去。



シューリマン(ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン)
ドイツ語: Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemannは
ドイツの考古学者、実業家。ギリシャ神話に出てくる伝説の都市トロイアが
実在することを発掘によって証明した。

Heinrich Schliemann氏の解説 By Wikipedia


上の写真は昭和28年(1953)11月大阪市中央区の法円坂住宅の建設工事で
見つかった後期難波宮大極殿の鴟尾(しび)の一部。


上の写真は前期難波宮の模型 in 大阪歴史博物館です。
手前より朱雀門、左右に朝集殿、朝堂院、内裏  左手には内裏西方官衛

上の写真は後期難波宮の模型 in 大阪歴史博物館です。


うえの写真はパンフレットより前期難波宮と後期難波宮の解説です。


上の写真は後期難波宮の大極殿を復元したものです。
(大阪歴史博物館の10階の展示)

# by seiyo39 | 2012-01-28 18:13 | 大阪情報 | Trackback | Comments(0)

地球の歴史 大阪科学技術館の展示から  

2012年 01月 22日

2012年1月18日(水)に大阪科学技術館の展示を見てきました。
大阪科学技術館のHP

大阪科学技術館の展示の中に地球の歴史について絵入りで簡明な
説明がされていましたそれらを写真紹介します。


上の写真は46~45億年前の地球と月の誕生です。
太陽系の隕石や月の岩石の生成年代から、この頃、原始地球が形成されたと
考えられている。月の形成時期も、45億5000万年前とされる。
巨大な分子雲の一部の重力による収縮が起こった約46億年前に始まったと
推定されている。収縮した質量の大部分は集まって太陽を形成し、残りは扁平な
原始惑星系円盤を形成してここから惑星、衛星、小惑星やその他の
太陽系小天体等ができた。


上の写真は40~35億年前 海と生命の誕生
40億年前には 原始海洋ができた。
40億年前(±2億年) ~35億年前に、原始生命が誕生したと考えられている。
35億年前、 地球上での最古の化石(西オーストラリア・ピルパラ地域からのバクテリアの化石)

7~5億年 雪玉地球とカンブリア紀の大爆発
大規模な氷河時代であったとされる。
生命が環境への対応することで多様に進化。
エディアカラ生物群やバージェス動物群のような多様性を形成していった。

4~3億年前 植物の大繁茂と生物の陸上への進出
脊椎動物(両生類)の上陸は3億6,000万年前と言われています。

2.5億年前 生物の大量絶滅とパンゲアの分裂
2.5億年前ベルム紀の絶滅と言われ、海生生物のうちの95 - 96%、
全ての生物種で見ても90% - 95%が絶滅したとされる。
ローレンシア大陸、バルティカ大陸、シベリア大陸などすべての大陸が次々と
衝突したことでバンゲア大陸が誕生した。

2~0.6億年前 恐竜の時代


6千5百万年前 白亜紀の大絶滅
隕石の落下による環境の激変により恐竜やアンモナイトが絶滅。
参考Blog(小生のBlog) 
恐竜絶滅の原因は小惑星の衝突
東北大田村宏治教授(発生生物学)のグループが鳥の翼3本指の謎解明

600~300万年前 人類の誕生
約600万〜500万年前 に、ヒトとチンパンジーが分化したとされる。

参考サイト
Wikipedia

地 球 の 歴 史 年 表

地質年代表

バンゲア大陸

東工大などのチーム 地球の外核2層構造の証拠を見つける

# by seiyo39 | 2012-01-22 07:39 | その他 | Trackback | Comments(0)

神戸市立埋蔵文化財センター企画展「昭和のくらし・昔のくらし Part6」見学記  

2012年 01月 21日

今年6回目を迎える企画展「昭和のくらし・昔のくらし Part6」
が神戸市立埋蔵文化財センターで開催されています。

昨日(2012-1-20)行ってきましたので写真紹介します。
当日は小学生の見学があり、賑わっていました。

企画展「昭和のくらし・昔のくらし Part6」の開催要綱 抜粋

1.会期
  平成24年1月14日(土)から平成24年3月4日(日)
  (開館時間:午前10時から午後5時、但し入館は午後4時30分まで)

2.場所
  神戸市埋蔵文化財センター 1F 企画展示室
  〒651-2273 神戸市西区糀台6丁目1 西神中央公園内
       TEL:078-992-0656  FAX:078-992-5201
          (神戸市営地下鉄「西神中央駅」下車 南に徒歩8分)

   詳細な案内は神戸市からの案内を参照してください。(下記)
  http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2012/01/20120111841001-2.html

展示の内容紹介

江戸時代のくらし

 行灯、携帯用鏡・紅皿などの化粧道具、台所用品、皿・杯・椀などの食器類等の
日用品の展示と商売で使用されていた道具の展示がありました。(上の写真)


上の写真は兵庫津遺蹟で出土した土製の人形の展示。

戦前・戦中のくらし


上の写真はヘルメスラヂオのポスター。
昭和5年から昭和15年のラジオの価格は115円程度であった。

上の写真は戦時報国債券(5円)。当時5円で米10kg買えた時代なので現在の価格
では3,000円から4,000円程度の債券。

上の写真は戦中の紙幣。
昭和時代の神戸(模型の出展)

新開地の神戸タワー、須磨水族館の周辺の遊園地、移設された和田岬灯台、市電
ポートタワー、昔の神戸港などが配置されていました。

昭和時代(戦後)の居間


昭和時代(戦後)の台所&洗面所


戦後の紙幣

上の写真は戦後の紙幣。
右手の紙幣は上から聖徳太子の1,000円札 昭和25年~現行
岩倉具視の500円札 昭和26年~現行 板垣退助の100円札 昭和28年~現行

過去の企画展の情報

冬季企画展示「昭和のくらし・昔のくらし3」

昨年(2011年)の展示 冬季企画展示「昭和のくらし・昔のくらし5」

昨年(2011年)の展示 冬季企画展示「昭和のくらし・昔のくらし5」について

参考サイト

神戸市立埋蔵文化財センター

神戸市の埋蔵文化財データベース

小生のBlogより過去の神戸市埋蔵文化財センターの訪問記にリンクしておきます。
神戸市埋蔵文化財センター in 2008-1-5

高塚山古墳群1号墳 (屋外展示)

神出古窯址群から出土した鬼瓦など

神戸市埋蔵文化財センター in 2009-7-12

垂水日向遺跡

中世の港湾都市神戸 in 神戸市埋蔵文化財センター on 2010-8-21

舞子古墳群 別名:石谷の石窟 on 2011-4-17

神戸市埋蔵文化財センター内の馬形埴輪

狩口台きつね古墳

神戸市立埋蔵文化財センターの銅鐸展示 on 2011-11-17

平成23年度神戸市埋蔵文化財センター秋季企画展 江戸時代の兵庫津を見学して

# by seiyo39 | 2012-01-21 06:40 | 神戸情報 | Trackback | Comments(0)

広がっているよ光ファイバーの展示 in大阪科学技術館  

2012年 01月 20日

2012年1月18日(水)に大阪科学技術館の展示を見てきました。
大阪科学技術館のHP

株式会社ケイ・オプティコムが提供している広がっているよ光ファイバー
展示が非常に解り易く説明されていましたので写真紹介します。
参考:株式会社ケイ・オプティコムのHP

1.海底ケーブル


上の展示は光ケーブルファイバーによる海底ケーブルの構造について書かれて
いました。

国際ケーブル・シップ株式会社のHPにも詳しい構造が掲載されています。(下記)

http://www.k-kcs.co.jp/solutionIntroduction.html

以下Wikipediaより海底ケーブルの光ファイバーに関する説明を引用させていただきます。
1970年代から、それまでの銅を導体にしたケーブルに対して、光ファイバーによる
ケーブルの実用化がすすめられた。研究はアメリカのAT&T、英国のBT、
フランスのCNET(現フランステレコム)、日本のKDD(現KDDI)、電電公社
(現NTT「NTTワールドエンジニアリングマリン」)などによって行われ[34]、
1986年、英国-ベルギー間に初の国際光海底ケーブルが敷設された。
そして、1988年には大西洋に、1989年には太平洋にケーブルが敷かれた[35]。

光ケーブルは伝送損失が小さく大容量の情報が高速に伝送できるケーブルとして
急速に普及し、現在広い範囲で使用されている。


最近の話題についてもリンクさせていただきます
NTTコムなどアジア最大級の光海底ケーブル建設へ 通信容量10倍へ

世界中に張り巡らせた海底ケーブルに関するサイト

サイト1

サイト2

サイト3(国際ケーブル・シップ株式会社のHP)

2.光ファイバーケーブル


100心型と1,000心型があります。

3.光クロージャー


光ファイバーの融着に関するビデオによる説明もあります。
我々の身近に見られる電線を見るとたくさんあると思います。

4.ドロップケーブル

# by seiyo39 | 2012-01-20 07:22 | その他 | Trackback | Comments(0)

神戸市立摩耶兵庫高校のマスコット マヤフクさま  

2012年 01月 19日

1.17阪神淡路大震災の追悼行事に出かけた時に市役所付近の地下街の
神戸市のショウウィンドーに標題のマスコットであるマヤフクさまを見つけました。
(写真は下のとおり)



これと同じマスコットが神戸市立摩耶兵庫高校の玄関に座って、生徒の皆に
声かけをしてつぶやきを発進しているそうです。(詳細は下記)

マヤフクさまの詳細は神戸市立摩耶兵庫高校のHPに載っています。

マヤフクさまは松尾稲荷神社のビリケンさまの松福さまがモデルとなり
製作されたそうです。

ビリケンさまについての解説 By Wikipedia
元々は1908年にアメリカ合衆国の芸術家フローレンス・プリッツが制作した像で、
彼女が夢の中で見た神秘的な人物の姿がモデルになっているという。
これが「幸福の神様」として世界中に流行した。当時のアメリカ大統領であった
ウィリアム・タフトの愛称が名前の由来とされている。また、セントルイス大学の
マスコットになっている。

日本には1909年頃渡来し、1911年大阪の繊維会社・神田屋田村商店
(現:田村駒株式会社)が商標登録を行い、販売促進用品や
商品キャラクターとして使用した。


神戸には松尾神社の他には西出鎮守稲荷神社にもあります。

西出鎮守稲荷神社のビリケンさまの写真 By 小生のBlog


# by seiyo39 | 2012-01-19 06:48 | 神戸情報 | Trackback | Comments(0)

1.17阪神淡路大震災から17年、18年目東遊園での追悼行事 on 2012-1-17   

2012年 01月 18日

阪神淡路大震災より17年経ちました。本年も1.17阪神淡路大震災の
追悼行事 in 神戸東遊園に参加してきました。


上の2枚の写真は神戸市役所24階から観た1.17阪神淡路大震災の追悼行事
の行われている東遊園地の様子です。
本年は1995年の文字が省略されていました。

上の写真は特設ステージでのイベント。
ぜんざいやお茶のふるまいもありました。

献花会場で献花をしてきました。

本年の行事では昨年の3.11東日本大震災の追悼行事も14時46分から
予定されていました。

1995年1月17日5時46分の地震発生からの各部署での対応状況について
地震年表という形でまとめられた資料が掲示されていました。

地震そのものは現在の科学でなくすことはできないが、発生後の対応によって
減災の方向にもっていくことができます。

関連する小生のBlogにリンクしておきます。
2010年の阪神淡路大震災の追悼行事

阪神・淡路大震災の記憶(東遊園地内)

マリーナ像と阪神淡路大震災の記憶

震災から13年 阪神淡路大震災1.17のつどい

阪神淡路大震災で被災した浜手バイパスのRC橋脚、伸縮装置、支承

妙法寺左岸公園の案内板が伝える阪神淡路大震災の記録

神戸第2地方合同庁舎の地震被害展示

名谷駅にある阪神淡路大震災復興支援タイル絵作品

吉本豊氏の彫刻「響き」 in 新長田

# by seiyo39 | 2012-01-18 05:49 | 神戸情報 | Trackback | Comments(0)

維新號  點心茶室 神戸店でのランチ on 2012-1-13  

2012年 01月 17日

週1回のエッチング(銅版画)の帰りに三宮国際会館の9階にある
維新號  點心茶室 神戸店でのランチを写真紹介します。

維新號  點心茶室 神戸店(いしんごう てんしんちゃしつ)の基本情報
住所:神戸市中央区御幸通8-1-6 神戸国際会館9F
TEL:078-230-3400
料理ジャンル:中華料理

公式HP

維新號 グループのHP

維新號は株式会社ウェイシンクリエイティブハウスが運用しているようです。

当日(2012-1-13)、私はランチコース2,310円を奥様は飲茶セット1,890円を注文。


上の写真の前菜がでてきます。

上の写真はランチコースの点心。

上の写真は飲茶セットの点心。

上の写真はランチコースのスープ。

上の写真はランチコースのメイン料理2種。

上の写真は飲茶セットのちまき。

上の写真はランチコースの焼きそば。

上の写真は飲茶セットのつゆそば。

最後にスイーツがついてきます。
店は広く、雰囲気もよかった。

# by seiyo39 | 2012-01-17 11:40 | 神戸情報 | Trackback | Comments(0)

美蘭館でのランチ on 2012-1-15  

2012年 01月 17日

新長田にある中華料理の美蘭館でのランチを紹介します。

美蘭館の基本情報

住所:神戸市長田区大橋町5-3-1 アスタプラザイースト2F
TEL:078-643-5055
料理ジャンル:中華料理
地図はグルナビの情報を見てください。 こちら
写真は2012-1-15(日)の撮影。
当日は奥様と義母の3人で行きました。
注文したのはサービスランチのA,B,Cです。1,000円です。


まずは上の写真の前菜。(サービスランチA,B,C共通)

上の写真はサービスランチAのスープ カレー風味。エビが美味しい。

上の写真はサービスランチBのスープ。エビとホタテが美味しい。

上の写真はサービスランチCの料理。エビが美味しい。

上の写真は点心。。(サービスランチA,B,C共通)

上の写真はお粥。。(サービスランチA,B,C共通)



# by seiyo39 | 2012-01-17 10:43 | 神戸情報 | Trackback | Comments(0)

先週の当Blogのアクセス数 過去最高を記録  

2012年 01月 15日

先週(1月8日~1月14日)のアクセス数が2,451  354.4人/日と
過去最高であったので報告させていただきます。

日々のアクセス数は下記のとおり

2012年1/8(日)~1/14(土)のアクセス

  1/8  1/9  1/10  1/11  1/12  1/13  1/14
   日   月    火    水   木    金   土
  314   328   265   284   704   294   292

 週平均 354.4人/日   1/12(木)には704人/日を記録

最近の週平均アクセス数は200人前後/日が多い中でこれだけのアクセス数が
あったことに感謝しております。

前の週のアクセス数は下記のとおりです。
1/1(日) 188
1/2(月) 182
1/3(火) 222
1/4(水) 228
1/5(木) 255
1/6(金) 268
1/7(土) 259

小生のつたないBlogではありますが、訪問していただいてアクセス数が
増えると励みになります。

今後も、無理をしない程度に皆様の訪問を励みにこのBlogを継続できたら
いいなと思っています。

本Blogにアクセス(訪問)された皆様に感謝するとともに
ご健勝を祈っております。

追記:2007年7月以降の累計 アクセス数は177,618人となっています。



# by seiyo39 | 2012-01-15 06:09 | その他 | Trackback | Comments(0)

平清盛ゆかりの地 in京都 その4 寂光院  

2012年 01月 14日

2011年1月10日に平清盛の娘で高倉天皇に嫁ぎ安徳天皇を生んだ
建礼門院徳子が隠棲されていた寂光院を訪問しましたので写真紹介します。

寂光院の基本情報
住所:京都市左京区大原草生町676 TEL:075-744-3341
宗派:天台宗 山号:清香山 寺号:玉泉寺
本尊:地蔵菩薩立像(平成12年(2000)5月9日に火災に遭う)
公式HP:http://www.jakkoin.jp/ 

寂光院は寺伝では推古天皇2年(594)、聖徳太子が父用明天皇の菩提のため
開創した天台宗のお寺です。


上の写真は建礼門院御陵=高倉天皇皇后徳子大原西陵から観た寂光院の書院の
建物(右手)を臨んだものです。
建礼門院御陵の写真
1月4日か5日?に降った雪が残っていました。

上の写真は本堂に向かって階段を登っていく途中の狐雲と庭園、左手には書院

上の写真は本堂。平成17年(2005)に再建されたものです。
本尊の地蔵菩薩立像、左手に阿波内侍像、右手に建礼門院が安置されています。

上の写真は豊臣秀吉から贈呈の南蛮鉄で造られた雪見燈篭。

上の写真は本堂から撮った庭と鐘楼。庭には有名な千年の姫小松もあります。

上の写真は庭から観た書院。

上の写真は寂光院からさらに山側に進んだところにある蔵の前の以前の貴重な
宝物が収蔵されています。

上の写真は女院=建礼門院に仕えた5人の侍女の供養塔。

文治2年(1186)4月に後白河法皇が1185年壇ノ浦の戦いで入水したが、
源氏方に助けられ生き延び寂光院で隠棲されていた建礼門院を訪ねられたことは
平家物語 灌頂巻の 大原御幸に詳しく書かれています。
また、謡曲の大原御幸にも謡われています。

後白河法皇は寂光院の佇まいをご覧になって、このような歌をお詠みになりました。

  池水にみぎはのさくら散りしきて
         なみの花こそさかりなりけれ


(池のほとりの桜が水面に美しく散り敷いて、今は波の上こそ花盛りであることよ)

# by seiyo39 | 2012-01-14 12:17 | 京都情報 | Trackback | Comments(0)

平清盛ゆかりの地 in京都 その3 法住寺  

2012年 01月 13日

平清盛自身ではなく後白河法皇に縁(ゆかり)の法住寺(ほうじゅうじ)を写真紹介します。
写真撮影日はすべて2011-6-5

法住寺の基本情報
住所:京都市東山区法住寺三十三間堂廻り町655 TEL:075-561-4137
宗派:天台宗 本尊:不動明王

法住寺の歴史
永祚元年(989)に太政大臣藤原為光が急死した娘祇子(しし)=花山天皇の女御の
菩提を弔うために創設された。
長元5年(1033)12月8日火災により消失。
後白河法皇はこの地を院の場所と決め応保元年(1161)に法住寺殿となった。
さらに後白河法皇は平清盛に命じて法住寺境内に蓮華王院(三十三間堂)を造営
させた。三十三間堂造営は長寛2年(1164)のことであった。
蓮華王院(三十三間堂)には父忠盛が建てた得長寿院にならって33間の本堂に
1,001体の十一面千手観音像を安置した。

法住寺殿は、後白河法皇の御所と共に、自分の墓の墓守の意味もある。
また御所を守る新日吉神宮・熊野神社も移した。

安元2年(1176)に後白河上皇の女御建春門院(平滋子)が亡くなると、
女御の御陵として法華堂が建てられた。

寿永2年(1183)木曾義仲の軍勢によって南殿に火がかけられ(法住寺合戦)、
後白河法皇は北の門から新日吉神社へむけ輿にのって逃亡、以後法皇は
六条西洞院の長講堂に移りそこで生涯を終えた。建久3年(1192)であった。

法住寺合戦の折、後白河法皇の身を守るために天台座主の明雲が敵の矢に
倒れた。命拾いした後白河法皇は「不動明王が明雲の姿をかりて、私の
身代わりになってくださった」と涙されたと伝えられている。
これが身代わり不動尊の謂れである。

元禄期には大石内蔵助が参拝したと伝えられ、その縁から四十七士木造が安置されて
いるなど、忠臣蔵縁の寺としても知られている。


上の3枚の写真が現在の法住寺の境内の建物などである。

平家物語を読むための六波羅・法住寺殿復元図が法住寺殿を理解するのに
大変役にたちます。
このサイトhttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike03.htmlにリンクさせていただきます。


# by seiyo39 | 2012-01-13 06:24 | 京都情報 | Trackback | Comments(1)

銅版画の下絵ドラフト 清涼寺阿弥陀如来坐像  

2012年 01月 12日

次期の銅版画の下絵を書きました。

今度もメゾチントで彫ってみようと思っています。
思ったような作品が出来るのか? 銅版画も奥が深く難しい。


清涼寺の阿弥陀如来坐像(重文 指定)を素材としています。



阿弥陀如来坐像の説明 By 小生のBlog

阿弥陀三尊の中央にある阿弥陀如来像は棲霞寺の本尊であったものである。
棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子で源氏物語の光源氏のモデルと謂われる
源融(みなもとのとおる)の山荘、棲霞観を寺にしたものである。
現在は清涼寺の阿弥陀堂としてそのあとをとどめている。
源融の子息が源融の供養のため造立した尊像です。

この像もそう言われれば光源氏の面影が伝わってくるようです。

像高さは178.2cm 寛平8年(896)に造像されたと考えられるそうです。
檜財の一本造、漆箔の坐像である。
明治34年(1901)8月2日に木造阿弥陀如来両脇侍像(三尊)として
重要文化財に指定されました。現在は国宝となっています。

この像が延喜年間(910年頃)に製作された醍醐寺薬師如来坐像や
仁和寺阿弥陀三尊(10世紀)につながるものである。

阿弥陀如来の印相は禅定印であるが両脇侍の印相は特異であるのが
特徴である。



# by seiyo39 | 2012-01-12 16:49 | その他 | Trackback | Comments(0)

平清盛ゆかりの地 in京都 その2 大原朧の清水  

2012年 01月 12日

大原の寂光院に行く途中に朧(おぼろ)の清水を見つけた。
立て札には平家物語(建礼門院) 縁の泉とも書かれていました。

建礼門院が朧(おぼろ)月夜の泉に映るやつれた自分の姿を見て、
自分のおかれた身の上を嘆いたといわれる泉である。


上の写真は朧の清水のアップです。

上の写真は朧の清水の遠景です。
左手の石碑には消えかけていてよく判別できないのですが平かなで「おぼろのしみず」と
書かれています。
石碑の側面には、石碑の建立者とされる「円観宗清」の名が刻まれているらしい。
宗清は平家の残党で後に石屋となり、兵庫に移ったという説があるが詳細は
不明だそうです。
バックの民家は草木染草庵大原工房です。

上の写真は道端になにげなくおいてあったものです。
さりげなく寂光院を訪れるお客様をもてなすようで、粋な計らいと感心させられました。

写真の撮影日はすべて2012-1-10




 

# by seiyo39 | 2012-01-12 11:48 | 京都情報 | Trackback | Comments(0)

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