和田神社 |
住所:兵庫県神戸市兵庫区和田宮通3丁目2-45 TEL:078-652-1551
「当社(和田神社)には天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を主神とし、
相殿には市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と蛭子命(ひるこのみこと)をお祀りしている。
特に主神の天御中主命は関西地方でお祀りしている神社が極稀で、江戸時代の国学者、
本居宜長が『天の真中に坐々て世ノ中の宇斯たる神』また平田篤胤は『天地萬物の主宰神』と解され信仰されたご祭神です。
万治元年(1658)大神の坐す神輿がこの地に流れ着き種々の神異をあらわし、これを知った時の領主青山大膳亮幸利は、神慮を慰むべく御社殿の大造営、やがてこの神を主神に、相殿には市柿嶋姫大神と蛭子大神をお祀り申し上げました。
これより後は南濱の総氏神として広く人々に親しまれ崇敬されました。
元の神域は、西南800mの海岸の松林(今の三菱重工内)で「蛭子の森」とよばれていた。
神代の昔蛭子大神ご鎮座の場所を求めて淡路から本州に上陸された最初の地が和田岬で
蛭子大神が祀られた西攝津最古の聖地です。かって西宮神社の神輿が渡御されていたのも
このご縁によるものです。
時代はくだり承安3年(1173)平清盛が兵庫津、経が島を造る時に、工事の安全と将来の繁栄を祈願し、安芸の宮島から市杵島姫命を勧請しました。
更にくだり、万治元年(1658)5月23日、武庫川堤防が決壊して、武庫郡小松村鎮座の岡田の宮の御神体が和田岬に流れついたのを祀ったのが天御中主命でこの神が種々の神異を
あらわし、これを知った時の領主の尼崎藩主・青山幸利が社殿を造営してから宮の景観が整った後「和田神社」と呼ばれるようになった。寛文2年(1662)頃の造営であった。
これより後は南浜の総氏神として広く人々に親しまれ、その時にあった社務所は隣松院と
呼ばれその庭園天下の名林泉として称賛され江戸時代西国諸大名が参勤交代の折に
長旅の疲れを慰め更に幕末においては勝海舟、14代将軍徳川家茂(文久3年(1863))、
15代徳川慶喜、与謝野蕪村などの文人、また勤皇の志士のおおくが参拝しこの書院(隣松院)で休息しあるいは密議をこらすなど明治維新の一舞台となった。
しかしながら明治政府の国策により明治34年(1901)に、三菱造船所がドックを新設する
ことになって、現在の地へ移転した。明治35年(1902)に移転。」
下の写真は本殿
下の写真は秋葉神社。台所の火事を防ぐご利益があります。
兵庫津の廻船問屋(高田屋嘉兵衛、工楽松右衛門、北風正造などが有名)の人達も
火事から財産を守る秋葉神社で御祓いをしてもらったものと推定されます。
下の写真は宮比社で材木の神様、土地の神様です。