平忠度の胴塚(首塚) |
住所:神戸市長田区野田町8丁目5
場所は見つけ難いと思いますが、株式会社伍魚福の建物の隣にあります。
天養元年(1144)平忠盛の子として生まれる平清盛の末弟にあたる。
母は、丹後守藤原為忠女などと伝えるが未詳
寿永3年(1184)2月7日に没。最高の官位は正四位下薩摩守
和歌の名手として知られ、薩摩守、伯耆守、右衛門佐、左兵衛佐を歴任
和歌は藤原俊成に師事
寿永2年(1183)、一門と都落ちの途中引き返し、俊成を尋ね下記の歌を
残してもらうように依頼。
「さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山桜かな」
この歌が千載和歌集で詠み人知らずで残っています。
一の谷合戦において、平忠度は西の城戸口・一の谷の大将軍でした。
敗れて駒ヶ林めざして落ち行く途中、源氏方の岡部六弥太忠澄と戦い、
忠澄の首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落とされて
しまいます。忠度はついに静かに念仏して討たれました。
その箙には、「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」
という歌が書かれた紙片が結ばれていたことで、平忠度であることがわかりました。
石塔は、阪神淡路大震災でバラバラに崩れるという被害にあいましたが、現在
修復されています。
上の写真は全体の写真で風化を防ぐための屋根があります。
上の写真は正四位下薩摩守忠度の慰霊石碑。
上下の写真は上記慰霊石碑の周囲にある守り尊や戦死した兵士を弔う一石仏。
上の写真は平氏の系図です。一の谷の戦いで戦死した平氏の将が赤字で示されて
います。
写真はすべて200-4-6撮影。