ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町散策記 その5 播磨町郷土資料館 |
貴重な資料が展示されている播磨町郷土資料館及び展示物を写真紹介します。
撮影は2011-3-26です。
播磨町郷土資料館の基本情報
住所:〒675-0142 兵庫県加古郡播磨町大中396-1
TEL:079-435-5000 FAX:079-436-0135
播磨町郷土資料館は昭和60年(1985)11月1日に開館された施設です。
大中遺跡、愛宕塚古墳、今里伝兵衛、ジョセフ ヒコ、別府鉄道,山之上遺跡
阿閇神社(あえじんじゃ)、新井(しんゆ)文書などをテーマに
展示されています。上の写真は播磨町郷土資料館の入口看板。
上の写真は播磨町郷土資料館の建物と左手は別府鉄道を走っていた車両。
上の写真は展示室入口。
上の写真はジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)と共に栄力丸に乗っていた17名の
漂流民の姿です。写真は18名ですが亀蔵がだぶって写っていますので17名。
1853年1月22日付のアメリカの新聞イラストレイテッド・ニュースに掲載されたものです。
です。17名の出身地などを簡単に紹介します。年齢は漂流時(1850)。
民蔵(大吉) 25歳 伊予郡国越郡岩城村の出身 (1825生-1903没)
1854年8月20日 中国から源宝号で長崎に到着。
愛媛の郷里で暮らす。
彦太郎 13歳 播磨国加古郡古宮村 (1837生-1897没)
(ジョセフ ヒコ) 略歴は省略
萬蔵 60歳 播磨国加古郡宮西村(1790生-1852年4月3日)
アメリカ艦隊での帰国準備のため中国へ向かうセント・メリー号で
ハワイに寄港したときに死去。
次作(トラ) 28歳? 播磨国加古郡西本庄村 (1822生-没年不明)
1852年秋に中国から彦太郎らと共にアメリカに戻り
税関監視船アーガス号で働いた後、ウェールズ・ファーゴ社に勤務
1859年6月4日 函館に帰国、横浜から播磨町に帰郷
清太郎(性兵衛 本荘善次郎)
26歳 播磨国加古郡西本庄村(1824生-1876年1月1日没)
音吉の尽力により中国船で帰るグループに入る
1854年8月20日中国から源宝号で長崎に到着。
3ヶ月余に及ぶ長崎奉行の取調べ後、西本庄村に到着。
岩吉(ダン 伝吉 Dan Ketch)
33歳 紀伊国海部郡塩津 (1817生-1860年1月29日没)
音吉の尽力により中国船で帰るグループに入る。
1854年に乍浦(さほ)で日本行きの船を待っていたが3月20日
逃亡し再び音吉の世話になる。
ペリー艦隊のミシシッピ号でアメリカに渡りさらにイギリスに移住して
イギリスの市民権を得る。
1859年6月26日イギリス領事のオールコックに同行して帰国。
攘夷運動の波で1860年品川の東禅寺にあったイギリス領事館で
暗殺されます。
仙太郎(サム・パッチ Sam Patch 千太郎 倉助 倉蔵)
18歳 安芸国沼田郡生口島 (1832生-1874没)
1853年4月8日ペリー艦隊のサスケ ハナ号に残り
1853年7月8日ペリー艦隊側から見た由一の日本人となる。
1854年3月31日の日米和親条約調印のときもアメリカの水兵として
働いています。また1855年からアメリカの大学に入学して1860年
3月31日に日本に戻ります。
1863年からバラー氏の下で、さらにクラーク氏の下でコックとして
横浜、江戸で働いた。
興太郎(利七、文太 佐伯文太)
喜代蔵(助兵衛、久蔵 浜本帰平)
37歳 播磨国加古郡東本庄村(1813生-1884没)
源次郎の経歴と同じ
亀蔵
徳兵衛
源次郎(浅右衛門 山口洋五郎 山口洋右衛門)
38歳 播磨国加古郡西本庄村(1812生-1878年2月11日没)
音吉の尽力により中国船で帰るグループに入る
1854年8月20日中国から源宝号で長崎に到着。
3ヶ月余に及ぶ長崎奉行の取調べ後、1855年西本庄村に到着。
姫路藩国学者秋元安民の進言で姫路藩より洋式帆船製造を命じられ
清太郎、甚八、喜代蔵らと協力して1858年速鳥丸、1859年に金花丸
さらに1863年神護丸を完成させます。
速鳥丸、神護丸の船長にもなって運行にも携わっています。
京助
幾松 37歳 摂津国八部郡二ツ茶屋村(現在の元町周辺)
(1813生-没年不明)
中国から1854年8月20日中国から源宝号で長崎に到組の一人。
1855年2月郷里に戻る。
甚八 43歳 播磨国加古郡西本庄村 (1807生-1858年6月4日没)
(木村 甚八)音吉の尽力により中国船で帰るグループに入る
1854年8月20日中国から源宝号で長崎に到着。
3ヶ月余に及ぶ長崎奉行の取調べ後、西本庄村に到着。
姫路藩の命で洋式帆船(スクーナー)をつくる途中1858年に死去。
安太郎 25歳 播磨国加古郡宮西村 (1825生-1854没)
音吉の尽力により中国船で帰るグループに入る
中国から源宝号に乗り長崎に向かっていたが、到着1日前の
1854年8月19日 船内で死去 長崎に葬られる。
長助 48歳 摂津八部郡神戸村 (1802生-没年不明)
音吉の尽力により中国船で帰るグループに入る
1854年8月20日中国から源宝号で長崎に到着。
3ヶ月余に及ぶ長崎奉行の取調べ後、神戸に帰る
1862年リンカーン大統領に会った頃のジョセフ ヒコ。
上の写真は長崎時代のジョセフ ヒコの写真で、右からヒコ、医師 ヴェッテル、
木戸孝允、伊藤博文。木戸孝允、伊藤博文はヒコから欧米の政治制度を学んだ。
(1867年6月)
上の写真は1864年日本で初めての新聞 海外新聞。
上の写真は播磨町郷土資料館に展示されている栄力丸の模型。
上の6枚の写真はジョセフ・ヒコ関係の展示。