神戸市兵庫区平野交差点の 鈴麦=鈴之儀 の看板について |
鈴麦=鈴之儀の看板(写真 添付)を見つけました。
鈴麦(すずむぎ)とは結婚式などで行われる鈴之儀と同じ意味で新しい出立(出陣)
などで幸運を祈願して巫女が鈴を振り清らかな鈴の音に託して神の恵みを授ける
儀式のことです。
この場所から1180年9月22日富士川の戦いに出陣したという内容の看板です。
その時、鈴之儀が行われたとのこと。
関東において治承4年8月17日(1180年9月8日)、伊豆国に流されていた源義朝の
三男・頼朝は以仁王(もてひとおう)の令旨を奉じて、舅の北条時政や土肥実平、
佐々木盛綱らと挙兵し、伊豆目代山木兼隆の館を襲撃して殺害した。
しかし、8月23日(9月14日)の石橋山の戦いで頼朝は大庭景親、伊東祐親率いる
平家方に惨敗してしまう。
その後源頼朝は安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して大軍に
膨れ上がり鎌倉に入る。
それに対し平家の源氏追討軍の編成は遅々として進まず、平維盛、忠度、知度ら
による追討軍が福原を出立したのは旧暦9月22日(新暦10月12日)であった。
京に入っても総大将の維盛と次将(参謀役)の藤原忠清が吉日を選ぶ選ばぬで悶着があり、
京を発したのは9月29日(10月19日)になってしまった。
大将の平維盛(たいらのこれもり)平清盛の孫の宝篋印塔は神戸市西区の如意寺に
あります。小生のBlogを参照。
平家方が時間を空費している間に頼朝は関東で勢力を回復し、甲斐国では甲斐源氏が、
信濃国では源義仲が挙兵していた。
追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めて7万騎(『平家物語』)の大軍となるが、
寄せ集めであり、折からの西国の大飢饉で兵糧の調達に苦しんだこともあって
士気を著しく低下させていた。
10月13日(11月2日)、追討軍は駿河国へ入った。16日(5日)に頼朝はこれを迎え撃つ
べく鎌倉を発する。吾妻鏡によると頼朝の軍勢は20万騎にのぼったという。
10月20日に平維盛、忠度、知度の平家軍と頼朝率いる源氏軍とが富士川で激突(吾妻鏡)。
山槐記によれば富士川の戦いは10月19日に行われたとある。平家軍は水鳥の羽音に驚き
自ら陣営に火を放って撤退したと記載。