平清盛ゆかりの地 in京都 その7 因幡堂平等寺 |
第46回 京の冬の旅の中で定期観光バスの特別コース「うるわしコース」
平安の覇者平清盛ゆかりの人物をたずねてのコースに入っています。
ゆかりの人物は小督局(こごうのつぼね)と安徳天皇の父、高倉天皇です。
因幡堂平等寺(因幡薬師)の基本情報
住所:京都市下京区烏丸通松原上る因幡堂町728
TEL:075-351-7724
宗派:真言宗智山派 山号:福聚山
本尊:薬師如来
公式HP: target="_blank">http://www.inabado.jp/index.html
正式名は平等寺であるが、地元では正式名の平等寺より因幡堂や因幡薬師の
通称名で知られている。
平等寺の寺号は、承安元年(1171)に高倉天皇によって下賜されたものである。
本尊は「がん封じ」の薬師如来として有名です。
現在も毎月8日に薬師護摩を焚き、癌封じの御祈願が行われています。
当日、東急ホテルから長講堂に行ったが9:30と早かった為、開いておらず
タクシーにて因幡堂平等寺(因幡薬師)に向かった。
途中、不明門通(あけずどおり)を五条通りから北上した行き当たりが
平等寺であった。
不明門通(あけずどおり)の由来は平等寺の正面の門が、常に閉ざしていたため
だそうです。
上の写真は平等寺の本堂です。明治19年(1886)の再建の建物です。
京都十三仏霊場第7番。
上の写真は観音堂。観音堂(十一面観音像を安置)は洛陽三十三所観音霊場の
第27番札所である。
弘法大師像・毘舎門天像・如意輪観音像・十一面観音・神変大菩薩像(役行者像)
不動明王像を祀られています。
因幡堂平等寺の正面遠景です。
上の写真は平等寺の参道。
因幡薬師の石碑の裏側には嘉永元年(1848)建立、と彫られています。
上の写真は烏丸通り側からの入口です。
石碑には「いなばやくし」と書かれています。
平等寺の歴史解説 By Wikipedia
『因幡堂縁起』(『山城名勝志』所収)、『因幡堂縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)などに
創建の由来が書かれている。縁起は諸本によって内容に若干の違いがあるが、
おおむね次のような話である。
大納言橘好古(たちばなのよしふる)の孫である少将橘行平(ゆきひら)は、
長徳3年(997年)、因幡国司としての任を終えて京に帰ろうとしていたところ、
重い病にかかった。
ある夜、行平の夢に貴い僧が現れ、「因幡国の賀露津(かろのつ)の浦に
貴い浮き木がある。
それは仏の国(インド)から衆生を救うために流れついたものである。
それを引き上げてみよ」と言う。行平が賀露津の漁師に命じて、波間に光るものを
引き上げてみると、それは等身の薬師如来の像であった。この薬師像を祀ったところ、
行平の病は癒え、京に帰ることができた。
この薬師像は天竺(インド)の祇園精舎の四十九院の1つ、東北療病院の本尊であった。
行平は薬師像をいずれ京に迎えると約束して因幡を後にしたが、その後因幡を訪れる
機会がないうちに長い歳月が過ぎた。
その後、長保5年(1003年)4月7日のこと、行平の屋敷の戸を叩く者がある。
戸を開けてみると、それは因幡からはるばる虚空を飛んでやってきた薬師像であった。
行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀った。これが因幡薬師平等寺の起源であるという。
なお、薬師如来像が引き上げられた年を天徳3年(959年)とし、行平は勅命で
因幡国一宮に参拝し、京に帰ろうとした際に病気になったとする縁起もある。
一説に薬師仏は因幡国にあった在地豪族・因幡氏の氏寺の薬師寺に安置されて
いたといい、行平が京都へ持ち去ったとされる。
南都における寺院勢力の強勢振りを嫌い、平安京内には、官寺である東寺・西寺以外に
寺院を建立することは禁止されていた。ただし、貴族の持仏堂は、建立が認められていた。
本寺も、これに相当する。また、六角堂(頂法寺)や革堂(行願寺)のような、
町堂(辻堂)の建立も認められていた。因幡堂も、これらと並んで町衆の信仰を集めた
町堂の代表格である。
上記Wijipediaの解説の中の東京博物館蔵の因幡堂縁起絵巻は有名であるが、
これとは別系統の観智院本と呼ばれる絵巻を因幡堂平等寺図録として小冊子に
収録されたものを入手(1,500円)しました。
鎌倉中期には一遍聖人(時宗の開祖)も一時期この堂に住まわれ、京での布教の起点とされた。
一遍聖人の墓は我ら神戸の真光寺にあります。
紹介記事(小生のBlog)
一遍上人関連(小生のBlog)
創建当初のものといわれる木造薬師如来立像(重文)本尊が特別公開
されていた。撮影禁止の為写真が載っているサイトへリンクさせていただきます。
http://tuusyou.web.infoseek.co.jp/t017.html
http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Sonota/Inabadou.html
薬師如来は日本三如来の一つです。
(あとの二つは清凉寺の釈迦如来像・善光寺(長野県)の阿弥陀如来像)
清凉寺については小生のBlog(湯どうふの話が中心ですが---)を参照してください。
http://seiyo39.exblog.jp/15993958/
上の写真は清凉寺の釈迦如来立像です。
像の高さは160cm 張延胶・張延襲作 北宋時代の作品で輸入されたものです。
雍熈2年(985)の作品である。像内には五臓などが収用されている。
台座は修理の墨書銘があり建保6年(1218)に修理されたことが判る。
Wikipediaの解説でも出てきましたが、町堂について追記します。
室町時代後期になると、経済力を持ち始めた庶民の自治的な組織、
いわゆる「町衆」とよばれる組織がつくられたことはよく知られている。
この町衆は、定期的あるいは臨時に集会を開き、町単位での決め事をした。
この集会の場を「町堂」と称し、その代表として上京の革堂(行願寺)、
下京の六角堂(頂法寺)そしてこの因幡堂(平等寺)がある。
また町衆は、天災や戦乱などの緊急時には、町堂(寺)の鐘を突き鳴らして
人々に急を知らせたという。
因幡薬師においても度々火災があったが、町衆により仏像が持ち出され
創作当時のものが残っています。
最後に本堂の右手にある橘行平像について因幡堂平等寺図録より撮りましたので
写真紹介します。(本堂内も撮影禁止)