築島寺の昔の写真と図絵 |
を読んでいましたら大正期の築島寺=来迎寺が出ていましたので
忘れないうちにコピーして記録として残します。
正面が山門と本堂、右手の地蔵堂、左手に観音堂と庫裏(くり)があったが
昭和20年の空襲で全焼した。
来迎寺(築島寺)の基本情報
住所:神戸市兵庫区島上町2-1-3 TEL:078-681-0397
宗派:浄土宗西山派 本尊:阿弥陀仏 山号:経島山
福原西国三十三箇所 第29番札所
建立の由緒:二条天皇(平清盛の説もあり)が築島建設で功のあった松王丸の
菩提を永く弔うために建立され念仏道場とした
小生のBlog 寶満寺(宝満寺)と青山幸利の慰霊碑 on 2011-12-26 で
福原西国観音霊場(福原西国 三十三観音霊場)を紹介しています。
http://seiyo39.exblog.jp/17469222/
来迎寺(築島寺)の現在の写真(小生のBlogより)は下記を参照してください。
来迎寺(築島寺) 訪問記 in 2011-2-21
さらに古い時代の図会として摂津名所図会(1796-1798に刊行)の第8巻より築島寺
の絵を紹介します。(下の写真)
日本名所風俗図会のPage302「経島山来迎寺」の説明書きより要約引用します。
「兵庫津の島上町にあり。本尊は恵心僧都の作で長さ4尺の阿弥陀仏、
島供養本尊釈迦仏、弁財天、平清盛鏡影(54歳のときに自ら画きたまふ影像)
松王小児像(17歳の松王丸を平相国が描く)、梅実伽藍彫刻(古伽藍が刻まれていた)
観音堂、鎮守(稲荷社に隣接)、松王人柱印石(本堂の前)
応保年間(1161-1162)に松王丸の遺徳を偲び平清盛が五条大納言国綱卿に命じて
来迎寺造営の詔を出した。
造営後、来迎寺は常行念仏の道場となり不断院と号し、世には築島寺と呼ばれる。」
以下は同じく上記と同じ摂津名所図会より松王丸に関する記述を要約引用させていただきます。
松王丸は松王小児(松王健児(こんでい)と書かれています。
「埋め立てても大波が土石をゆり流してしまう。竜神の怒りをなだめるため30人の
人柱と経石を海底におさめよとの占いがでた。
平相国(清盛)は生田の森に関をすえて往還の旅人を捕らえさせたが、近隣の村民が
これを歎いて訴えるので兵庫の者はこの難を免れた。
今のことわざに『兵庫の者なり御免あれ』というのはこの由縁である。
3ヶ月かけて30人をとりこにしたが、親族が群れ来てその悲嘆は尋常ではなかった。
清盛はこれを悼んで延期すること5ヶ月に及んだ。
そこへ讃州香川城主大井(おおい)民部(みんぶ)の嫡子松王小児17歳が進み出て、
身代わりに自分ひとりを沈めるように願い出た。清盛は大いに心を動かされる。
ついに、経石と松王小児を海に沈めて島は成った。沈めた所に建てられたのが
築島寺(来迎寺)である。」
松王小児入海の碑の説明板より要約引用させていただきます。
「二条天皇の御代(1158-1184)平清盛はわが国の貿易の中心地はこの兵庫である
との確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。
しかし潮流が早く非常な難工事で、完成寸前に押し流されることが二度に及んだ。
時の占い師は「これは龍神の怒りである。三十人の人柱と一切経を書写した経を
沈めると成就するであろう」と言上した。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え
通行の旅人を捕らえさせたが、肉親の悲嘆は大きかった。
この時、清盛の侍童で賀川の城主田井民部氏の嫡男17歳の松王が
「人柱のことは罪深い。自分一人を身代わりにして沈めた下さい」と申し出た。
応保元年(1161)7月13日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み築港造営は
完成した。
兵庫津の繁栄の礎となった事件であった。
江戸時代の名所案内には七宮祭り、和田の笠松、築島寺、梅は岡本、桜は生田
松は兵庫の湊川と言われ名所となって賑わっていた。
また、来迎寺には札場=幕府が設置した高札場(町人が守るべきことしてはならぬ
ことその他幕府からの布達を掲示する場所)があったことからも人が集まる場所
であったことが推測できる。
兵庫津には来迎寺以外に札場は南仲町(札場の辻)、湊口惣門(兵庫津の東の入口)、
柳原惣門(兵庫津の西の入口)にあった。