光明寺と修道記念碑 on 2012-6-2 |
初参加です。
副題には~平師盛(たいらのもろもり)の史跡などのある旧奥畑村を歩く~となっており、
コースは総合運動公園(集合)→ 修道記念碑碑→ 石水寺→ 大歳神社(解散)でした。
参加者は神戸新聞に案内が掲載されなかったこともあり10名前後でした。
案内者は地元の名士岡田保氏(名著 奥畑史の編集委員長)、森田卓氏、江戸時代の医師
で福原観音運霊場三十三ヶ所の御詠歌の作者として知られる佐藤信孝氏(1768-1848)
の子孫?の佐藤氏の3名でした。
本日は石水寺別院と称される光明寺(廃寺)と修道記念碑について写真を中心に紹介します。
参考文献:奥畑史、名谷誌
1. 光明寺
光明寺は石水寺とともに開山、天授元年(1375年)悦捜宗怡(えつそうそうい)禅師により
創建された寺跡で石水寺末無量山といい、過去帳によれば南禅寺にも記録がある。
本尊は阿弥陀如来。石水寺別院と称されていた。
明治33年(1900)10月に阿弥陀堂が再建の記録がある。さらに明治43年(1910)9月に
改築修理されています。改築の目的は小学校の教員の宿舎として使用するためであった。
昭和45年(1970)9月に鉄筋コンクリート造りの光明寺会館(奥畑公民館)地鎮祭が行われ
昭和46年6月(1971)光明寺会館(奥畑公民館)は本尊阿弥陀如来の安座式により
めでたく竣工した。正式名は光明寺跡石水寺会館となった。
上の写真は昭和46年(1971)に完成した光明寺跡石水寺会館です奥畑公民館としても
利用されています。光明寺の阿弥陀堂に鎮座していた釈迦如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩
の三尊がお祀りされています。
名谷小学校百周年記念奉賛 名谷誌 昭和48年11月発行のPage235-238に光明寺の
修理・改築記録及び現在の光明寺会館(奥畑公民館)の建設の経過が詳細に記述
されています。
上の写真は光明寺の墓場の入口の六地蔵と観音講が奉納した燈籠。
観音講はさまざまの観音の徳をたたえるもので通常17日、18日が観音さまの日です。
観音講の数珠操りについての奥畑村の伝説と伝統行事を紹介します。
ある年、奥畑村で疫病が大流行し、村人が多数死亡したため、村中の老婆が寄り合い
百万遍の数珠を操り必死に祈祷の結果、疫病がなおり村人を救ったという。
それ以降毎月17日に数珠操りが続けられている?。
又、農作物の病害虫の御祓いとして堂の統という行事があり毎年1月14日に転法輪寺の
住職によりご祈祷(ウルシの木を1尺余りに切り2本を1組)をして頂きこれを各戸の配布
して苗代に祀って豊作を祈る。
2.修道記念碑
武庫郡須磨村(妙法寺村)と奥畑村とを結ぶ里道の建設が明治32年(1899)の
費用捻出委員の選出から始まり明治42年(1909)の完成まで続けられました。
この修道記念碑は明治42年の完成を記念して建立されたものです。
字は当時の兵庫県知事服部一三氏の書だそうです。
明治42年5月26日には奥畑大歳神社で盛大な開通式が挙行されたそうです。
奥畑村の道路委員は下記のとおり。
岡田繁蔵、岡本千代松、岡本新太郎、樫原伊太郎、樫原太市、樫原小左衛門
在原宗吉、佐藤栄治郎、佐藤定市、森田半平、森田亀之助、森田令二
森田房蔵の各氏
上の写真が修道記念碑のアップです。
上の写真は修道碑と光明寺跡石水寺会館(奥畑公民館)。
上の写真は修道碑の脇にある道標 右 太山寺 左 あかし と書いてあります。