兵庫県 小野散策記 その8 藤森弘庵先生顕彰碑 |
訪問日:2012-8-5
藤森弘庵先生顕彰碑の所在地:兵庫県小野市西本町477
(小野市立好古館の庭園)
以前の訪問記
兵庫県 小野散策記 その1 来迎寺
兵庫県 小野散策記 その2 住吉神社
兵庫県 小野散策記 その3 神明神社(垂井城跡)
兵庫県 小野散策記 その4 小野藩陣屋跡(小野市西本町)
兵庫県 小野散策記 その5 郷土の偉大な歌人上田三四二の歌碑
兵庫県 小野散策記 その6 小野一柳家の氏神磐代神社
兵庫県 小野散策記 その7 小野王塚古墳
浄土寺は以前に訪問しているので、浄土寺訪問記にリンクしておきます。
小野市の浄土寺訪問記 on 2010-11-30
上の写真が藤森弘庵先生顕彰碑です。
顕彰碑には下記の文が書かれています。
藤森 弘庵(ふじもり こうあん)(1799-1862)は、小野藩出身の儒学者で、
名は大雅、晩年には天山と称しました。八代藩主一柳末周公の祐筆であり、
世子末延の侍講となり、藩士に漢籍を講しました。
天保5年(1834)九代藩主一柳末延公に藩政改革の意見書を提出しましたが
採択されず、意を決して小野藩を辞しました。その後は常陸国(茨城県)土浦藩に
仕え活躍しました。
学問の教義よりも実用性を重んじ、勤皇精神に厚い人物だったようです。
この石碑は藤森弘庵の業績を称え昭和38年(1963)に建立されたものです。
上の写真は顕彰碑付近より小野市立好古館の建物を撮ったものです。
藤森弘庵先生についてWikipediaより解説を要約引用させていただきます。
藤森 弘庵(ふじもり こうあん、寛政11年3月11日(1799年4月15日) -
文久2年10月8日(1862年11月29日))は、幕末の小野藩士、土浦藩士。
小野藩士藤森義正の子、母は猶子(堀越伊兵衛の娘)。
江戸に生まれる、柴野碧海・長野豊山・古賀穀堂・古賀侗庵らに師事する。
帰藩後は父の跡を継いで右筆、また世子一柳末延の侍講となる。
また藩主一柳末周に時勢について建言するも容れられず、
天保5年(1834年)致仕し、江戸で私塾を開いた。
間もなく久保田藩士碓井左中の紹介で土浦藩に入り、藩主土屋彦直・寅直に仕え、
朱子学を普及させる。天保10年(1839年)藩校郁文館の創立に貢献、督学として
藩士子弟の教育に当たった。
天保14年(1843年)郡奉行となって主に訴訟事件の解決に奔走。
また寅直の諮問を受けて郡制改革を進言した。しかし弘化3年(1846年)部下に
連座して郡奉行を辞職、さらに権力闘争に巻き込まれて弘化4年(1845年)藩を
辞して江戸に戻った。
後に江戸下谷に私塾を開き、嘉永6年(1853年)ペリー来航に際して『海防備論』を
著し、また『芻言』を執筆して水戸藩の徳川斉昭に建白。
安政4年(1857年)上洛して梁川星巌や頼三樹三郎、梅田雲浜、月性らと交流
して帰府。勤皇活動を行うも、安政5年(1858年)安政の大獄に連座し江戸で
捕えられ、江戸町奉行から水戸降勅についての尋問を受けた。
安政6年(1859年)追放刑となり下総国行徳に移る。文久2年(1862年)赦免され、
江戸の次男光吉邸に移り、同年同地で死去した。
墓所は東京都港区の曹渓寺。
著書には民政書や海防書をはじめ数多くを残し、また唐宋文や漢詩に優れた才能
を発揮した。
伝記に『叢書・日本の思想家37.梁川星巌・藤森弘庵』
(上野日出刀、明徳出版社、1998年)