名谷玉子温泉 (湯あそびひろば 柚耶の里) on 2012-12-13 |
五十肩のリハビリをやってきました。写真紹介します。
名谷玉子温泉 (湯あそびひろば 柚耶(ゆや)の里)は別名七那杜の湯とも言われます。
名谷玉子温泉 (湯あそびひろば 柚耶の里)の基本情報
住所:兵庫県神戸市垂水区名谷町湯屋谷2251
TEL:078-794-3800
営業時間:10:00~翌8:30(サウナコーナー:11:00~)、無休
料金:大人400円・小学生 150円・幼児(0歳~) 60円
サウナコーナー 260円加算
泉質:ナトリウム-塩化物泉
付属サービス:和食レストラン、マッサージ、あかすり
タオル・石鹸・シャンプーなど必要なものを用意して持って行く必要あり
上の写真は柚耶(ゆや)の里の入口です。
柚耶の里(名谷玉子温泉)の建物遠景です。
関西ではお馴染みの銭湯連合「湯あそびひろば」の加盟店です。
2003年にリニューアルされているようです。
五十肩も効能の中に含まれており良かったようです。勿論一日では治りませんが
七那杜の湯の縁起が脱衣所に掲示されていましたので引用させていただきます。
「数百年の昔、戦国戦乱のようやく治まった頃より、誰とも知れず中山七森として
この集落を取り巻く七つの塚の物語が語られるようになり、今なお里びとたちに
語り伝えられています。
それはこのお風呂の北側の狐塚、西の長兵衛・加市、西南にある中ん町、南の笹
東に祀られている宮野尾・明神と明確に名づけられ、ついこの前まですべて明らかに
現存していた森の物語なのです。
狐塚の森には明治初年、金の経筒が出土し、天照皇大神を祀った長兵衛の森は
江戸時代参詣するもの数知れず、加市の森・笹の森は源平合戦で破れた平家の武者達
を葬った塚と言われ、中ん町の森は椿の大樹のもと白竜大神を祀るとともに須磨の浦
で敗死した悲劇の若武者平敦盛を祀ったと伝えられています。
宮野尾・明神の森は団地の開発とともに新しく建立され宮野尾大明神として祀られて
おります。恐らくこれらの森社は、古い時代のこの土地有縁の霊を祀った魂まつりの
塚であろうと考えられます。
時代は移り、開発が進み、土地の姿が一変してしまった現在もこの町やこのお風呂は
彼らによって静かにやさしく見守られているにちがいありません。
さわやかに、また楽しく、皆様の憩いのひとときをお過ごしください。 株式会社大一」
参考:宮野尾神社
名谷玉子温泉 は転法輪寺の湯屋であったと思われ「湯屋谷」という小字が今も残っている。
千坊谷竜華山転法輪寺は貞応二年(1223)以前、塩屋のジェームス山にありました。
「東たるみ、岩の上にありて、大伽藍・坊舎数百ありし所なれども、今はなし。
同郷の内三十余丁北に、寺号、古佛存すゆゑに、今その廃地を千坊が谷とよべり。」
龍華山 転法輪寺 on 2011-7-4
施浴(せよく)と湯屋についてもう少し書きたいと思います。
参考:朝日百科 日本の歴史4 Page220
古代では賑給(しんごう)という行為が律令国家によって行われた。貧しい人達に米塩や
衣服を与える行為である。その後、東大寺縁起に見られる光明皇后(701~760)の
施浴伝説が有名である。時代は8世紀のことである。現在も法華寺で体験できる。
平安時代中期を過ぎる頃から賑給に代わり追善などの施行(せぎょう)が行われるようになった。
この施行の一部に湯屋で入浴させる施浴(せよく)が行われるようになった。
家々には浴室もなく、町湯もなかった時代、寺院の施浴は、宗教的意味だけでなく、
庶民にとっても、うれしい施しであったわけです。施浴によって、庶民は入浴の楽しみ
を知ったせいでしょうか、平安時代の末には京都に銭湯のはしりともいえる湯屋が
登場します。
鎌倉時代になると新旧仏教を広めることもあり施浴が発展し湯屋の数も増えていった。
建久3年(1192)源頼朝が後白河法皇の追福に鎌倉山で行なった100日間の施浴や
幕府が北条政子の供養に行なった長期間の施浴は特に有名で、吾妻鏡にも記されています。
名谷玉子温泉がいつ頃から湯屋があったのか不明であるがかなり昔からあったものと
推定できる。(江戸時代以前か?)
学園東町・神戸高専の向かいあたりに「湯屋が谷公園」「湯屋が谷南公園」の名前が
つけられており転法輪寺の湯屋の名残りの一部と思っています。
近辺の太山寺にはなでしこの湯がありこれも湯屋のなごりであろうと思われる。
多聞寺には湯屋公園という名前が残っています。