淡河弾正忠定範戦死之碑 in 三木市八幡森史蹟公園 on 2013-4-8 |
2013年4月8日(月)に現地で写真を撮ってきましたので紹介します。
三木市は淡河弾正忠定範の404回目の命日にあたる昭和57年(1982)9月10日、
三木合戦で信長方、別所方双方に多数の死傷者を出した平田大村加佐合戦で秀吉方の
追手の手により非業の最期を遂げた淡河城城主の淡河弾正忠定範とその郎党などの
死を慰霊すために三木市民、淡河家の子孫、別所長治公の部下子孫などの方々の募金と
土地所有者森田氏の協力を得て八幡森史蹟公園の整備と淡河弾正忠定範戦死之碑、
800人余の平田大村加佐合戦戦死者の慰霊碑と説明文が書かれた記念碑を建立した。
前置きが長くなりましたが写真を紹介していきます。
上の写真は三木市民病院西側道路で見つけた八幡森史蹟公園の案内看板。
八幡森史蹟公園のある場所は三木市加佐字八幡本で明治時代以前は八幡神社、
大日如来堂、隣接地には十王堂、薬師堂、三坂神社などがあった地である。
上の写真は加佐第一公園と書かれた入口と鎮守の森の名残を残す樹木群。
上の写真は天正7年(1579)9月10日に戦死した淡河弾正忠定範戦死之碑。
昭和57年(1982)9月10日に建立され除幕式も行われた。
この地が淡河弾正定範(おうご だんじょう さだのり)の最期の地であることは
昭和57年1月17日、別所長治公の子孫で東京都在住の後藤隆章氏が播州三木城図を
持参された折、図面に淡河定範(おうご さだのり)戦死の地と明らかに記入
されていたことを根拠としている。
(出典:三木史談 第10号Page25 境 一氏 著 淡河弾正戦死跡碑建立について)
上の写真は説明文が書かれた記念碑で文章は神戸市北区淡河町南僧尾の下田勉氏に
より書かれたものでそのまま引用させていただきます。
「淡河弾正忠定範は三木郡淡河の城主にして三木城主別所長治の義伯父なり
天正六年二月長治織田信長に抗し三木城に籠る 七年五月織田の軍淡河城を囲む
六月二十七日定範牝馬(ひんば)を敵陣に放ちて遂に快勝す 茲に定範三百余騎
を率い三木城に入る 九月十日毛利の軍糧食を三木城に納めんとす 羽柴の兵之を
阻み平田大村にて合戦終日に及ぶ 定範東西に馳駆し激戦数合日傾僅かに主従五騎
帰城せんとして此(ここ)の丘に至る 敵兵之を包囲して逼る(せまる)
定範策を以て敵を屠り しかる後莞爾として自刃す 時に行年四十一才なり
惜しい哉」 昭和57年9月
上の写真は淡河弾正忠定範戦死之碑と記念碑の遠景です。
上の写真は平田大村加佐合戦陣没将士之霊と書かれた慰霊碑。
討ち死にした淡河弾正忠定範以外の将兵は後藤又左衛門、別所甚太夫、光枝小太郎、
櫛橋弥五三、高橋平左衛門、小野権左衛門らで73名と碑に書かれています。
全体では800余名とも書かれています。
上の写真は淡河弾正や将兵をしのぶ詩吟、和歌の碑です。
仮名まじり文にすると下記のようになります。
八幡森の感懐 土田尊舟 作
「三木の堅城 戦塵に没す 東播の天地 血河新なり
成敗論ずることを休めよ 大村の恨 自刃して長へに留む 勇将の神」
上の写真は全体の遠景です。
上の写真は八幡森史蹟公園の慰霊碑、記念碑の建立の寄付者、協力者の名前が
記載された碑です。四国坂出市の阿河氏、福岡の淡河氏、地元加佐町の皆様など
多数の皆様の協力で建立されたことが判ります。
淡河城城主の淡河弾正忠定範について簡単に紹介しておきます。
備前国英田郡江見庄(現岡山県英田郡江見町)の江見城主・江見又治朗祐春の次男として
天文8年(1539)江見城で生れる。幼名は次郎行定。
弘治年間(1555~1557)に淡河家に入り「定範(さだのり)」と名を改め、
永禄年間(1558~1569)の始め頃に三木城主・別所加賀守就治(村治)の女(娘)
と結婚。弾正忠に任じられた。正式名は淡河弾正忠定範であるが略して淡河弾正定範
とか淡河定範、淡河弾正とか呼ばれています。
三木城合戦では300名を超える郎党とともに討ち死にした悲劇の将で播磨の楠木正成と
いわれることもある。