萩原城跡 on 2013-6-11 |
きましたので紹介します。
萩原城は淡河城城主の淡河氏が淡河城の支城として鎌倉末期に築いたとされています。
淡河氏の後、有馬氏(有馬重則)の居城となりました。
天文23年(1554)三好長慶が三木城攻めをした際に、三好側に加わった有馬重則に
攻められ萩原城は落城し、淡河氏は淡河城に移ったことが有馬氏の居城となった
原因であろうと推定されています。
有馬則頼は三木合戦(1578-1580)の際に羽柴秀吉軍に加わり参戦、淡河城の城主
淡河弾正忠定範が淡河城を抜け出し三木城に移り、戦死したため淡河城は有馬則頼の
城となった。その際、萩原城が廃城となったのでは?という説が有力のようです。
上の写真は萩原城跡の南側から北側に向けて撮った萩原城跡の遠景です。
道を間違えて南側に行き過ぎたためこのような遠景を撮ることができました。
上の写真も萩原城跡の南側から北側に向けて撮った萩原城跡です。
手前の民家あたりはかっては武家屋敷であったであろうと推定されています。
上の写真は萩原城跡(本丸部)を西側から撮ったものです。
上の写真は北側から南に向けて撮ったもので本丸の手前(北側)の二の丸跡が
写っています。二の丸については神戸市が調査を行っており、本丸を守るための
堀、石組が見つかっています。鉄砲玉や鎧(よろい)の部品であるこはぜも
出土しています。さらに12~14世紀の掘立柱建物や縄文時代後期の竪穴住居も
見つかっています。古代において淡河は淡河湖があったことが確認されており
その舟付き場があったことを連想させる木津という地名が現在も存在しています。
上の写真は本丸跡西側を南から北側に向けて撮ったものです。
上の写真は神戸市の資料にでていた空から観た萩原城跡です。
出典:2009-2-22 第12回淡河歴史セミナー 北区役所淡河連絡所2階会議室
神戸市教育委員会文化財課 「発掘! 淡河の遺跡」
二の丸の発掘現場の写真を空から撮ったものです。二の丸が本丸の3倍程度の面積で
あったであろうと推定されます。
淡河川が外堀の役目をしていたことも推測できます。
最後に国土地理院2万5千分の1の地図で萩原城跡の位置を示します。
中央の経緯度 北緯34度48分49.4秒 東経135度6分16秒
+印が萩原城跡の大体の位置です。
淡河城跡への行き方は、まず、県道38号線から細い道(県道沿いの角にある理髪店が目印)
に入ります淡河川にかかる橋を越えてのぼり坂を登って頂点近くの左手(東側)が
萩原城跡です。