NHK大河ドラマ「八重の桜」 明治京都編 先取り映像より |
これからの見所紹介がありました。
テレビ紹介画面の写真と現地で現在も確認できるものに関してはその写真を交えて
紹介していきます。
NHKの番組では同志社大学大学院佐伯順子教授がナビゲーターを務められ解説を
加えておられました。
上の写真は明治4年10月(旧暦なので新暦換算では11月)、兄、山本覚馬のいる
京都三条木屋町へ母佐久と山本覚馬の正妻うらとの次女みね(峰)を伴なって
三条大橋を渡る場面である。兄山本覚馬と9年ぶりに再会する。
山本覚馬の正妻うらは次女のみねを上洛させるが、会津を去ることを拒み、事実上の
離縁となる。精神を病んだ妹のために故郷に残ったともいわれている。
明治4年(1871)時点での上記の方々の年齢を記載しておきます。
山本覚馬:44歳
小田時栄:18歳
山本佐久:62歳 文化6年(1809)~ 明治29年(1896)
新島八重:26歳 弘化2年11月3日(1845年12月1日)~ 昭和7年(1932年)6月14日
山本峰(みね):9歳 文久2年(1862)~明治20年(1887)
明治14年 伊勢時雄(1857-1927)家に嫁ぐ
伊勢時雄は今治教会牧師として赴任
みねと時雄の間に長女 悦子(明治17年7月生まれ)が生まれた。
明治19年(1886)2月伊勢時雄が同志社英学校神学部教授となった
機会に京都荒神口に移り住む。4月には時雄の母・つせ(1831-1894)
らも上洛。
伊勢時雄=横井時雄についてWikipediaの解説を引用。
横井 時雄(安政4年10月17日(1857年12月3日) - 昭和2年(1927年)9月13日)は、
日本の牧師、ジャーナリスト、編集者、元逓信官僚、元衆議院議員、同志社第3代社長
(現・総長)。一時期、伊勢時雄を名のる。
父は横井小楠。金森通倫・徳富蘇峰・徳冨蘆花は、母方の親戚にあたる。最初の妻は
山本覚馬の次女で、後妻は柳瀬義富の五女、豊。妹は海老名弾正の妻である。
安政4年(1857年)、熊本藩士・儒学者の横井小楠の長男として肥後国に生まれる。
熊本洋学校に学び、明治9年(1876年)には熊本バンドの結成に参加、同年に上京し
開成学校に入学するが翌年に同志社に転入。
明治12年(1879年)に同志社を卒業ののち伝道者として愛媛県今治市に赴任、
新島襄により按手礼を受けた。明治19年(1886年)、今治教会牧師を辞任。
同志社の教師を経たのちに、明治20年(1887年)、再上京し、帰郷した義弟
海老名弾正に代わり、本郷教会の牧師をつとめる傍ら、『基督教新聞』、
『六合雑誌』の編集にも携わったほか、内村鑑三を支援した。
また、この頃から自由主義神学思想に傾倒していき、明治27年(1894年)には
その思想を鮮明に打ち出した『我邦の基督教問題』を著した。
明治30年(1897年)、丁酉懇話会の設立に加わり、同年に同志社の第3代社長
に就任。明治32年(1899年)に辞職した後、官界に転身し、逓信省官房長を
つとめた。明治36年(1903年)、岡山選挙区より立憲政友会公認で衆議院議員
選挙に立候補し、当選を果たした。明治42年(1909年)、日本製糖汚職事件で
逮捕、有罪判決を受けた。同年5月6日に衆議院議員を辞職[1]。
雑誌『時代思潮』を発行したほか『東京日日新聞』の主幹もつとめた。
大正8年(1919年)、パリ講和会議に出席。
昭和2年(1927年)、大分県別府市にて死去。
上の写真は明治4年11月(新暦では12月換算)京都での生活が始まった新島八重、
母佐久、姪のみね。
上の2枚の写真は山本覚馬が薩摩屋敷の牢に幽閉されていた時にまとめた「管見」を
新島八重に見せる山本覚馬。
管見の中には女性も男子と同じく学ぶべしと書いており、新島八重にこれからは学問が
武器になることを諭す。
上の写真は女紅場で英語で教える新島八重。
明治5年(1872)5月、山本覚馬の推薦で京都女紅場(後の府立第一高女、現在の府立
鴨沂高校)の権舎長並びに井機織教導試補に任じられる。ここに茶道教師として勤務
していた裏千家13代・円能斎鉄中の母の真精院(1850-1916)と知り合い茶道に
親しむようになる。
上の写真はかっての女紅場。
上の写真は現在も残っている女紅場址の石碑です。
我が国最初の公立女学校です。正式名は「新英学校及女紅場」
設置場所は丸太町橋西詰南。
旧新島邸の近所にありますので近くに行かれる場合は是非立ち寄ってください。
撮影は2013-1-30
上の写真は明治6年(1873)第2回京都博覧会(京都大宮御所)
第1回は明治5年(1872)3月10日(新暦では4月17日)に西本願寺、知恩院
建仁寺で開催されています。
新島八重は山本覚馬とともに英語のガイド作成の手伝いをしています。
上の写真は新島襄と新島八重の出逢いの場面。
明治8年(1875)の夏に京都のあまりの暑さに耐えかねて井戸の上で裁縫をしていた
時に新島襄とであった。新島襄は山本覚馬の家に遊びに来ていた。
明治8年(1875)10月15日に婚約
明治9年(1876) 1月3日 davis邸(デービス邸)においてキリスト教式の
結婚式を挙行
列席者はラーネッド夫妻、同志社英学校の生徒たち、八重や山本覚馬の友人で
40人ほどの質素な式であった。
新島襄との結婚とも関連して明治8年(1875)11月に女紅場を解雇される。
新島襄はアメリカで世話になったハーディ夫人あての手紙で新島八重のことを
「彼女はハンサムウーマンである」と書いています。
ここから新島八重の新たな戦いが始まります。
詳細は略
上の2枚は有名な新島八重のエピソードに関わる場面。
下記のブログでも紹介。
ハンサムウーマン 新島八重 By NHK歴史秘話ヒストリア