三木城跡及び付城跡・土塁 国史跡指定記念シンポジウム 「三木合戦を知る」参加録 on 2013-12-7 |
https://www.kobe-np.co.jp/news/miki/alacarte/201312/0006555389.shtml
国史跡指定記念シンポジウム 「三木合戦を知る」の基本情報
【開催日時】2013年12月7日 13:00~16:30 開場/12:00
【開催場所】三木市文化会館 小ホール 住所:三木市福井1937
・基調講演
「国指定史跡の意義と今後の活用」
水野 正好さん(奈良大学名誉教授)
・事例発表1
「三木合戦の経緯」
小林 基伸さん(大手前大学教授)
・事例発表2
「三木城跡及び付城跡・土塁の構造」
宮田 逸民さん(三木市文化財保護審議会委員)
・パネルディスカッション
「三木合戦の遺跡を活かす」
コーディネーター
三条 杜夫さん(放送作家・フリーアナウンサー)
パネラー
宮脇 大和さん(三木城下町まちづくり協議会)
稲岡 祐子さん(みき演劇セミナー)
西森 寛知さん(三木小学校教頭)
廣井 愛邦さん(三木市教育委員会)
神戸新聞NEXTの記事で紹介されています。https://www.kobe-np.co.jp/news/miki/alacarte/201312/0006552863.shtml
1.基調講演「国指定史跡の意義と今後の活用」 水野 正好さん(奈良大学名誉教授)
して、三木城攻略のために築かれた砦である「付城(つけしろ)」がよく残っている点だと紹介されました。
和歌山の根来寺は2km四方程度の敷地をもつ大規模な寺で秀吉によって焼かれ現在は大塔と本堂を残す程度である。それに対して三木合戦において三木城は陥落
したが羽柴秀吉は城下町に残る町衆の経済基盤を育成した意味で三木に対して功績があった。
堺の仁徳天皇陵の例をあげて世界の史跡に対する考え方と日本の感覚がずれている点について説明。エジプトの研究者に仁徳天皇陵をヘリコプターで空から案内した
ところ史跡のすぐそこまで一般民家が密集していることに驚きのコメントをもらったことも紹介されました。
図書館のある二の丸跡の発掘調査の成果で三木城に籠城していた人たちが飢えに苦しみ壁の藁までも食べたという通説に対して残された甕の中の残差物から三木城
に籠城していた人たちが食料に困っていなかったのでは?との可能性も示唆されました。
今後の国史跡の活かし方について市長がリーダーシップをとり市民が立ち上がり盛り上げることが大切。町おこしに必ず繋がるので是非史実に基づいてアクションを
起こしていただきたい。子供へ史実や郷土の地理歴史を教え伝承していくことも重要。
2.「三木合戦の経緯」小林 基伸さん(大手前大学教授)
三木合戦の展開経緯について3つの段階に分けて整理されました。
第一段階
別所長治、梶原景秀、明石則実の離反 天正6年(1578)3月
・上月城落城 天正6年(1578)7月5日
・織田信忠軍の活動 天正6年(1578)5月初旬 織田信忠、信雄、瀧川一益、明智光秀らが播磨着陣
から天正6年(1578)8月秀吉が本陣を書写山から平井山に移す
第二段階
・荒木村重が織田方を離反 天正6年(1578)10月中旬
黒田官兵衛は織田方に付いていた主君・小寺政職や、摂津の荒木村重が離反したため村重の説得に赴くが、有岡城に幽閉されてしまう。
帰らぬ官兵衛を信長は謀反人と疑い、激怒する。(講演会の内容にありませんでしたが)
・赤松則房 毛利勢の置塩城攻撃に対して切り崩し 天正7年(1579)1月
・織田信忠出陣と秀吉の丹生山制圧(花隈→淡河→三木の兵糧補給ルートが断たれる)天正7年(1579)5月
・毛利方、魚住の拠点形成(天正7年(1579)6月)、平田・大村合戦天正7年(1579)9月9日、10日
第三段階
・宇喜多直家が毛利を離反 天正7年(1579)10月初 毛利側 摂津・播磨への支援困難になる
この頃東伯耆の南条氏も毛利を離反
・有岡城(伊丹)開城 6百数十名殺される 天正7年(1579)11月
黒田官兵衛は有岡城開城の際、家臣に救出される。一年間の幽閉生活で膝が曲がり、髪は抜け落ちたが、謀反人の汚名は消えた。
以後、異型の軍師として秀吉に仕えていく。有馬温泉の湯治で静養。
(講演会の内容にありませんでしたが)
・三木城落城 天正8年(1580)1月17日
1月8日 魚住城落城 1月10日 志方城と御着城が落城 1月15日竹田城が落城
・播磨平定 秀吉、英賀(あが)城を落とす 天正8年(1580)4月24日
秀吉、宇野氏の長水(ちょうずい)城を落とす 5月10日
三木城の最期について「播州御征伐之事」、「信長公記」、「別所記」などに基づき羽柴秀吉が三木城主の別所長治の願いを聞き入れ
長治らの切腹と引き換えに城兵を助命した美談が通説とされているが小林氏は宇喜多直家書状
天正8年(1580)正月20日を引用し
「別所長治、賀相、友之が切腹。切腹したもの以外を1箇所に集め番を置いて悉く殺す」と羽柴秀吉の家臣花房又七から報告を受けていること。
法融寺文書 天正8年(1580)4月15日で本願寺の顕如(信長と敵対)が敵対できなくなった理由として「抵抗を続けるなら有岡城や三木城のようになる」
と記述している。羽柴秀吉書状 (長曾我部元親宛)で天正8年6月19日で「三木正月17日に悉く首を刎ね(はね)と記述していることを根拠として通説
を学問的に再考すべきと提案されました。播州御征伐之事について問題点として下記を挙げられました。
1)織田信忠以下の武将が全く登場しない
2)信長の子息らを無視
秀吉を顕彰するために作為的な創作物か?
相反する2つの説について今後多角的に検証していく必要があると締めくくられました。
3.三木城跡及び付城跡・土塁の構造 宮田 逸民さん(三木市文化財保護審議会委員)
プロジェクターでの説明は解り易くGoodでした。
上のプロジェクタースライドは三木城の地図で付城と多重土塁線があります。
法界寺上ノ上付城には宮部善祥坊、出口五郎左エ門、石川清助が陣を張っていました。
10分間の休憩後パネルディスカッションがありました。
稲岡 祐子さん(みき演劇セミナー)が三木市に所縁があり加古川市在住の作家玉岡かおるさんが三木合戦を題材とした書に関する話題を出されていましたので少し紹介しておきます。新刊は「虹、つどうべし別所一族ご無念御留」(幻冬舎)1,680円 278頁 三木合戦の発端となった加古川評定、黒田官兵衛の妻の光姫、黒田24騎の一員の野口左助などについても書かれています。
長時間のシンポジウムであったが興味深い良いシンポジウムでした。
質問タイムで三木城のイメージのわかるものとの話がありましたのでその写真を添付しておきます。
撮影:2013-5-22