英賀城跡と英賀合戦 |
写真は2013年12月14日に山陽電鉄の西飾磨(にししかま)からJR西日本の英賀保(あがほ)まで散策した時のものを使用しています。
念のため英賀城本丸跡の碑がある場所の地図も添付しておきます。
2013-12-14に散策した場所を順に記載していきます。
1.英賀城本丸跡碑 地図の17の位置です。
上の写真は英賀城本丸之跡と書かれた石碑です。昭和35年(1960)1月英賀自治振興会により建立されました。当時の英賀城址保存顕彰会のメンバーが書かれた石碑もありました。(下の写真)
英賀城(あがじょう)
岩繋城(いわつぎじょう)ともいう。
南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変つごうのよい城であった。
鎌倉時代には、とりでが、造られていたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守った。
しかし嘉吉の乱(1441年)によって勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えた。
天正8年(1580年)秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し、一大勢力を誇っていた。
城内には本丸・二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えた。
また英賀五坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町、約九百軒)として大いににぎわった。
昭和13年ごろまでは図に示したように土塁が残っていたが、今では英賀神社と英賀薬師(城主の墓所・宝寿寺跡)の北側だけに残っている。
また英賀御坊跡は昭和13年ごろ夢前川の付替工事により消滅した。
その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土した。
平成6年12月 姫路市教育委員会
地図は下側が北となっていますので注意が必要
天正5年(1577年)現在の英賀城郭概要
1)城郭面積 56ヘクタール 約17万坪
2)土塁堤防延長 3,700メートル
3)城内区域延長 東西900メートル・南北800メートル
4)城門 10門
5)城郭建物 本丸・二ノ丸ほか7館
6)英賀御坊ほか35ヶ寺
7)城内町衆の数 49町 860軒
英賀合戦について簡単に記述しておきます。
小寺政職が織田方に味方するとの情報を知った毛利輝元は天正4年(1576)5月、毛利軍の浦宗勝が5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある英賀村(あが村=兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸する。浦宗勝は、小早川隆景の水軍を代表する名将で、毛利水軍を支えた人物である。このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は32歳であった。黒田官兵衛は小寺政職に対して小勢(500人~1,000人程度)で毛利の大軍に立ち向かうためには敵の不意を襲うほかないと進言し、小寺政職が出陣を許可すると、小寺官兵衛は、農民を集めて幟・旗・鐘・太鼓を持たせて後方の茂みに伏せ、手勢500人を率いて英賀村に到着した浦宗勝の軍に奇襲攻撃をかけ(英賀合戦)戦いに勝利した。
このとき黒田官兵衛は次のような文章を残しています。
「身を捨てて運のほどを一戦の勝負に試み給へかし」
英賀薬師周辺と英賀神社の記事に続く
さらに見る場合はMoreへ
2.英賀薬師周辺
英賀薬師は英賀城が秀吉軍に攻められ天正8年(1580)4月に落城してから約100年後、延宝9年(1681)に英賀城主の三木氏の所縁の人の手により創建されました。落城前には法寿寺という寺が建っていたそです。
播磨鑑に置塩城主赤松義村が「播磨十水」の一つに定めると記載されている大木之清水の井戸は通称「薬師の湯」と呼ばれ昔から人々に「薬の井戸」として親しまれてきた。
3.英賀神社 地図の29番
英賀神社の宮司さんは歴史にも興味があるらしく前に書いた英賀城本丸之跡の石碑建立時(昭和35年)、先の宮司さんの名前が英賀城址保存顕彰会のメンバーとして書かれています。
英賀神社の公式HP:http://www.agajinja.jp/
上記に神社のこと英賀城のことなどが書かれています。
上の2枚の写真は英賀神社に残る土塁の跡です。