旧住友須磨別邸の門柱 |
住友家の15代当主住友吉左衛門友純(号で春翠)が明治36年(1903)に別邸として建てています。本邸は大阪鰻谷にありましたが、春翠はここを大変気に入り一家揃って須磨に本拠を移すほどであった。
須磨別邸の建築は、住友グループ本店の本社臨時建築部が総指揮をとり野口孫市や日高胖(1875年〜1952年)も関与し建設されています。
上の写真は旧住友別邸です。
明治末から大正期にかけて須磨海岸には名門の九鬼邸、小曽根邸、鈴木ヨネ邸
辰馬邸、川崎邸、滝川邸、松方邸など神戸を代表する著名人の本宅または別荘が
建ち並んでいました。
住友家の15代当主住友吉左衛門友純氏についてWikipediaの解説より補足
引用させていただきます。
第15代住友吉左衛門を襲名
明治26年4月、住友15世をつぎ、隆麿を改め、住友吉左衛門友純と称した。
のちに春翠と号した。明治26年4月28日相続の式をあげ、以来家業を継承して、
別子銅山の鉱業を経営し、神戸市に銅貿易をなし、また再製茶及び
樟脳製造業を行い、滋賀県坂田郡醒ヵ井村において生糸業を営む、
広瀬宰平が総理人としてあり、実際の経営に当たるが、友純は別子銅山を
巡視し、各社を視察し、庄司炭坑を買収した。
しかし、友純入籍の後、困難な事態が発生する。別子銅山で技師金矢某の
事件があり、明治19年金矢と支配人広瀬坦は罰せられ、山根製錬所の監督
大島供清も罰せられた。25年2月、別子支配人広瀬坦は辞し、
宰平の甥久保盛明がかわる。しかし大島供清は宰平を失脚させるため、
郷里尾道に帰り、5万円の借用を願う。忠隈炭坑の買収に宰平の非行ありとし、
供清は退身勧告をなし、宰平に拒絶され、ついに宰平の弾劾上申書を家長に
提出する。
伊庭貞剛は単身別子山に上り、人々を鎮めるべく支配人久保盛明にかわる。
さらに新居浜に煙害問題があり、宰平弾劾が重なる。
友純は大島供清を須磨別邸に引見した。
供清は宰平退身の上申書をもって友純の前に出たが友純の説論をうけている。
住友家にとり総理事あるいは最高幹部の人事は重大であり、まして宰平は
大黒柱的存在であった。
しかし友純は西園寺公望の力を借りて宰平の辞表を受け取り、同時に大島
をも罷免して、喧嘩両成敗の形をもって取り収める。
あとは、宰平の甥伊庭貞剛につがすということで、おそらく宰平を納得
させたものである。