忠度塚 |
寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いで平家の将の薩摩守平忠度(たいらのただのり)は
源氏方の武蔵国の岡部六弥太忠澄に首を討ち取られた。
その亡骸を埋めたところと伝えられる。
平忠度(1144-1184)は平清盛の異母の弟で藤原俊成に師事し和歌を作るのが
好きだったようである。
源氏の忠澄が平家の忠度の箙(えびら)に結び付けられた文を取ってみたところ、
下記の歌(平家物語)が書き付けられていたという。
旅宿花 「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主(あるじ)ならまし」
平忠度は武将としてよりも歌人としての方が有名で平家西へ敗走した時、忠度は途中で
京都に引き返し、師の藤原俊成に対して「新たに勅撰集を編纂するのであれば、
自分の和歌も入れてほしい。」と、詠草1巻を手渡した話は有名。
俊成は当時の世情を配慮し、作者を「詠み人知らず」とした上で、
「さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」
という忠度の歌を「千載和歌集」に載せています。
塚の奥の右手には素性はよく判りませんが古く由緒がありそうな墓石が置かれていました。
2008-6-12撮影。
平成7年(1995)1月17日の阪神淡路大震災で倒壊したが天文町の町内会の
皆様の手で同年4月10日に整備された碑もありました。(下の写真)