ジョセフ・ヒコの英文碑 |
紹介します。
以下説明書きより引用(一部加筆)
「わが国の新聞の父として文久2年(1862)3月31日米国リンカーン大統領と握手した
唯一人の日本人として下田の港で開国を迫ったペルリ(ペリー)提督の通訳として有名な
ジョセフ・ヒコ(日本名:浜田彦蔵)の手になる英文である。神戸港についた外人客が
神戸のマスコット兵庫大仏に多数参拝に来ることから能福寺第19世住職 加藤慈晃師が
ジョセフ・ヒコに依頼して寺の縁起を英文で作ったのがこの碑である。
(碑は明治25年(1892)頃建造された)」
ジェセフ・ヒコ(1837-1897)はNHKのその時歴史が動いたで2006年(平成18年)2月1日に放送され紹介されているそうです。(私は見ていない)
T.Nakajima氏が上手くHPでまとめられていますのでLINKしておきます。
(以下 2012-8-17 追記)
One thousand years or more ago,by request of emperor Dengio Daishi
brought over from China,The religion of Shaka of India.
The first teachings of this religion in Hiyogo were taught at this temple,
and this sect is the original of all others in Japan.
延暦大師延暦廿三年
恭奉勅入唐伝法往還
寄舶最初初教化之霊場
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)は明治10年(1877)に松本鋹子(当時18歳)と結婚し
神戸で生活していた時代があった。(明治8年(1875)(38歳)~明治21年(51歳))
能福寺とのつながりは妻松本鋹子の家が能福寺の檀家であったことである。
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