2009年 01月 12日
和田神社境内の顕彰碑 |
和田神社の大鳥居をくぐって少し行くと左手に下の写真の顕彰碑があります。
一番右の顕彰碑は神田翁=神田兵右衛門の顕彰碑で、書き下し文
(神戸文書館のHPより引用)は以下のとおり。
町兵隊の編成、明親館の建設、兵庫運河の築造水道の布設などで功績があったそうだ。
神戸市の初代の市会議長も務められた。
「神田翁彰徳碑
兵庫県知事正三位勲一等服部一三篆額
求めて得ざる者は名にして、得て失ひ易き者は望なり。衆望の之に帰し、人之を服慕し令名益々盛なるは実に難し。神田翁の如き難ずる者も難ぜず。謙にして愈々顕はる。其積徳の致す所、偉と謂ふベきなり。翁、名は胤保(たねやす)、号は松雲、播州印南郡大塩村梅谷庄左衛門君の第三子。天保十三年二月十八日を以て生る.安政三年六月兵庫神田氏の養ふ所となる。(養子となる)慶応元年九月家を嗣承し父の称兵右衛門を襲ふ。明治元年二月会計宮御用掛となり東征の出納を掌る。時に姫路藩未だ順逆をつまびらかにせず向背決せず。岡山兵来りせまる。上下紛擾し藩老高須隼人、薩将岩下氏と謀り以って帰順す。翁此議に参与し周旋甚だ力む。盗を防ぎ暴をふせぐの法制未だ定まらず。翁即ち議して町兵隊を編し以て不慮を警す。又教育の急務たるを論じ、学堂を建置す。命じて明親館といふ。五年学制始めて定まる。すなわち小校十数を設く。又地を購ひ拡張す。今の兵庫尋常小学の地是也。港湾未だ全からず。新川杜を籾(はじ)め、新渠をうがち九年七月川成る。翁まさに区長たり。故に名を避け実を修めえ事に当り竣工す。地を得ること九千余坪、湊西区財産となし、又官に請うて、瀕海(海辺)の地一満有余坪を得、諸街(緒町)に分配し以って共有財産と為す。凡そ埠頭(はとば)の地船舶の遭難発する者あれば害の大小、貨の多寡に準じ費金を課賦し、俗に浦仕舞と呼ぶ。これ他人の禍難を利するなり。翁痛論して之を除く。翁天資忠恕(思いやりの心)敦厚(親切で手厚い)、謙(謙虚)にして克(自制する)。成人皆心服す。凡そ議会には悉く之に参じ町に於て市に於て県に於て長となり、或は常に員となる。郡区経済を分離し、社局を創立する等、諸の大項より以って学務衛生殖産、勧商に至るまで心を尽さざる所なし。その水利に於て最も力を致すと云ふ。(水道市設委員長として、神戸市水道布設に尽力) 三十二年九月官 藍綬褒章を賜ひ銀杯之に副ふ。四十二年十二月特旨を以って、従六位に叙せらる。今玄康戌翁年七十、市民同志相謀り碑を建て以て其徳を彰せんと欲して来りて余に文を請ふ。ああ名声■然(めいせいきょうぜん)。衆すなわちこれを後世に顕はさんと欲す。齢古希にのぼり(達し)衆すなわちいよいよ高きを祈る。其衆望を得るの厚きことかくの如し。以って銘せざるべからず。銘に曰く 摩耶の山 武庫の海 徳深く 衆以って相比ぶ 論を立てて 忠誠 勲功これ偉なり 理水殖財沢、都市に遍し望の帰する所 僉済美(みなさいび)を推す(父祖の業を承けて成功する事)上寿(長寿)奚(いずくん)ぞ疑はん 君子愷(やはらぎ)を楽しむ。
明治四十三年庚戌十月
浪華 南岳藤沢恒 撰
従五位勲四等大邨屯書」
また一番左の顕彰碑は三浦清太郎の顕彰碑になります。
三浦清太郎氏は漁業の振興に功績があった。
真ん中のものは未チェック。

一番右の顕彰碑は神田翁=神田兵右衛門の顕彰碑で、書き下し文
(神戸文書館のHPより引用)は以下のとおり。
町兵隊の編成、明親館の建設、兵庫運河の築造水道の布設などで功績があったそうだ。
神戸市の初代の市会議長も務められた。
「神田翁彰徳碑
兵庫県知事正三位勲一等服部一三篆額
求めて得ざる者は名にして、得て失ひ易き者は望なり。衆望の之に帰し、人之を服慕し令名益々盛なるは実に難し。神田翁の如き難ずる者も難ぜず。謙にして愈々顕はる。其積徳の致す所、偉と謂ふベきなり。翁、名は胤保(たねやす)、号は松雲、播州印南郡大塩村梅谷庄左衛門君の第三子。天保十三年二月十八日を以て生る.安政三年六月兵庫神田氏の養ふ所となる。(養子となる)慶応元年九月家を嗣承し父の称兵右衛門を襲ふ。明治元年二月会計宮御用掛となり東征の出納を掌る。時に姫路藩未だ順逆をつまびらかにせず向背決せず。岡山兵来りせまる。上下紛擾し藩老高須隼人、薩将岩下氏と謀り以って帰順す。翁此議に参与し周旋甚だ力む。盗を防ぎ暴をふせぐの法制未だ定まらず。翁即ち議して町兵隊を編し以て不慮を警す。又教育の急務たるを論じ、学堂を建置す。命じて明親館といふ。五年学制始めて定まる。すなわち小校十数を設く。又地を購ひ拡張す。今の兵庫尋常小学の地是也。港湾未だ全からず。新川杜を籾(はじ)め、新渠をうがち九年七月川成る。翁まさに区長たり。故に名を避け実を修めえ事に当り竣工す。地を得ること九千余坪、湊西区財産となし、又官に請うて、瀕海(海辺)の地一満有余坪を得、諸街(緒町)に分配し以って共有財産と為す。凡そ埠頭(はとば)の地船舶の遭難発する者あれば害の大小、貨の多寡に準じ費金を課賦し、俗に浦仕舞と呼ぶ。これ他人の禍難を利するなり。翁痛論して之を除く。翁天資忠恕(思いやりの心)敦厚(親切で手厚い)、謙(謙虚)にして克(自制する)。成人皆心服す。凡そ議会には悉く之に参じ町に於て市に於て県に於て長となり、或は常に員となる。郡区経済を分離し、社局を創立する等、諸の大項より以って学務衛生殖産、勧商に至るまで心を尽さざる所なし。その水利に於て最も力を致すと云ふ。(水道市設委員長として、神戸市水道布設に尽力) 三十二年九月官 藍綬褒章を賜ひ銀杯之に副ふ。四十二年十二月特旨を以って、従六位に叙せらる。今玄康戌翁年七十、市民同志相謀り碑を建て以て其徳を彰せんと欲して来りて余に文を請ふ。ああ名声■然(めいせいきょうぜん)。衆すなわちこれを後世に顕はさんと欲す。齢古希にのぼり(達し)衆すなわちいよいよ高きを祈る。其衆望を得るの厚きことかくの如し。以って銘せざるべからず。銘に曰く 摩耶の山 武庫の海 徳深く 衆以って相比ぶ 論を立てて 忠誠 勲功これ偉なり 理水殖財沢、都市に遍し望の帰する所 僉済美(みなさいび)を推す(父祖の業を承けて成功する事)上寿(長寿)奚(いずくん)ぞ疑はん 君子愷(やはらぎ)を楽しむ。
明治四十三年庚戌十月
浪華 南岳藤沢恒 撰
従五位勲四等大邨屯書」
また一番左の顕彰碑は三浦清太郎の顕彰碑になります。
三浦清太郎氏は漁業の振興に功績があった。
真ん中のものは未チェック。

by seiyo39
| 2009-01-12 05:58
| 神戸情報
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