源平合戦勇士の碑 |
説明書きより要約引用させていただきます。
「この附近は小平六池(こへいろくいけ)といわれていた。寿永3年(1184)源平一の谷の
合戦で討ち死にした平通盛(たいらのみちもり)源氏の木村源吾重章同じく猪俣小平六則綱
(平盛俊を討ち取った)らの碑がこの附近の西国街道に面してあった。後に長田区明泉寺
附近で討ち死にした平知章(たいらのともあき)の碑をここに移し敵味方のへだてなく源平
勇士の碑としてあわせ弔ったといわれつわものどもの夢の跡といった姿である。
------平知章について-------
生田の森の大手を守っていた大将軍、父知盛の危急を救って自ら討たれ、家臣監物太郎
頼賢も知章を救おうとしてともに明泉寺附近で戦死した。享保年間(1716-1735)に
並河政所(摂津志の著者)が知章を孝子として顕彰するためこの地に移したと伝えられて
いる。」
-------小平六池と夫婦池について(神戸市文書館のHPより引用)-----------
「明治初年まで、現村野工業高校辺りは、「小平六池」とも「かるも池」と云う池が、
その南(現県警長田警察署)辺りには「大池」があった。池が二つあったので「夫婦池」と
呼ばれて西国街道での一つの目標になった。
この夫婦(めおと)池のそばへ、人目につきやすいようにと、源平の勇士の碑が建てられて
いた。
江戸後期の儒学者・歴史家である頼山陽(安永9年~天保3年〔1780~1832〕)が、この街道を往復して「双墳あいのぞむ百年のうれい、右はこれ河州(河内守楠木正成)、左は武州(武蔵守知章)」と、忠と孝の代表者をしのんだ詩を詠じている。」
2009-1-13撮影。