監物太郎頼賢の碑 |
生田の森の大将中納言知盛は子供の武蔵守知章(むさしのかみともあき)と共に
落ちていきました。源氏方の児玉党10数騎が知章を討とうと追いかけてきました。
これを見た知章の家来監物太郎頼賢(けんもつたろうよりかた)は主君を救おうと
奮闘したが討ち死にした。
主君の平知章は討ち死にしたものの平知盛は海に逃れ西方へ落ちていきました。
監物太郎頼賢が没後憤死した地長田村明泉寺長阪山腹に弔われていたが
江戸時代享保年間(1716-1735)に西国街道の長田神社の近くの夫婦池の
畔(現在地)に再建された。
碑は古来より庶民の信仰が篤く「腰より下の病を救う霊験がある」とされています。
上の写真は監物太郎頼賢の碑の場所を示す案内板。
村野工業高校の東の路地を少し入ったところにあります。
監物太郎頼賢と関係があるのかどうか不明であるが近くの民家にけんもつの文字が
あったので思わず写真を撮りました。
撮影は全て2009-1-13.
お話の上手な御住職ですばらしい御法談でした。
わたしも御法談が好きで、色々と聴きに行かせて頂いています。
住職の御法談の中で住職の作られた和歌が、住職より披露されました。
「御仏の御名を称えるわが声はわが声ながら、尊かりけり」
(みほとけのみなをとなえるわがこえはわがこえながらとおとかりけり)
その後お釈迦さまの名前をみんなで三回おとなえしました。
すばらしい和歌で感動し、帰り道何回も自分で住職の作られたこのすばらしい和歌をおとなえしながら帰り道を歩いて帰りました。木々の色や草の色までいつもと違って見える帰り道でした。
帰って早速ネットで検索しました。
すると住職が御自分で作られたと言われていたにも関わらず、
昔から浄土宗や、浄土真宗などで有名な和歌らしく、龍谷大学のHPにも掲載されていました。
その後私は、一気に方の力が抜け、涙が出てきました。凄く残念でした。