松平日向守信之公の碑 |
2012年12月11日に内容の一部を加除しました。
原文は2009-2-12に公開
供養碑の所在地は神戸市垂水区霞ヶ丘2丁目4の住所表示板のある電柱の
近くにあります。松平信之(1631-1688)明石藩第6代藩主。
上の写真は現地の説明板(西垂水財産区管理会による)です。
17世紀中頃1659年より約20年間明石藩主であった松平日向守信之は、
積極的に新田開発を行った。大蔵谷、鳥羽新田、東野新田(現大久保森田)、
浜西村(魚住町浜西)、伊川谷の脇新田(吹上)、明石林崎村小久保、玉津村水谷
永井(旧長井)、漆山、生田(旧田代)、垂水新田などを開発した。
また街道に松並木を植え防風林としたことや西区岩岡町で煙草栽培(赤坂煙草)も
奨励しました。
その威徳から村人から「日向さん」と慕われ、隣接する神出町同様「日向さん」に関する
伝承が多く残っています。
松平日向守信之は寛永8年(1631)父:松平山城守忠国と母:戸田氏鉄の娘との間に
次男として生まれました。長男の松平信久が早死したため嫡子となった。
父の松平山城守忠国は慶安2年(1649)に播磨明石城7万石転封され藤井松平家初代の
明石城主となりました。以下2代藩主松平日向守信之について年譜を記載します。
慶安2年(1649)信之(19歳):将軍家初見
承応2(1653) 従五位下日向守に任ぜられる。信之(23歳)
万治2年(1659)父松平忠国が死去し信之が明石城主を継承する。信之(29歳)
延宝7(1679)大和郡山城8万石に転封。
貞享2年(1685)6月老中職となる
貞享3年(1686)旧暦7月22日(現在の暦で9月9日)老中在職中(9万石)に
古河城(下総)で死去。
地元の人達は垂水新田の開発に対する恩徳を謝し播州のゆかりの地に松平日向守信之公の
供養碑が建てられました。(昭和の初めまでは西垂水新田と呼ばれていました)
上の写真は供養碑の写真です。書かれている文字は以下のとおりです。
貞享三丙寅天
長昌院殿従四位江月圓覺大居士
仲秋□廿二日
【解説】
貞享三年=1686年 丙寅(ひのえとら)の7月22日に松平信之は卒しています。
仲秋□廿二日にしているのは7月22日に死去していますが江戸で火葬して下総古河の
板間村に葬ったのが8月22日であるので古河藩の正式発表がこの日(8月22日)で
あったためそのような表現となったと推定されます。
長昌院殿従四位江月圓覺大居士は松平信之の戒名
上の写真は現在の商大筋にあった天王橋の一部と霞ヶ丘命名碑もこの地に
移されています。
住宅街の一角に松平日向守信之公の碑はあります。(上下の写真)
写真はすべて2009-2-11撮影。
松平信之の供養塔、顕彰碑、位牌は垂水区霞ヶ丘以外にも下記のようなものが
あります。(今後実物を検証した上で記事に取り上げたいと考えています。)
西区神出の最明寺の位牌や漆山の石碑(建立者 徳左エ門)、明石市の大久保町の
森田住吉神社の供養塔、鳥羽新田円通寺の報徳碑と木主、魚住町清水浜西日向堂の木主
生田神社境内の日向さん
松平信之の生きた時代を理解するうえで基礎資料として歴代の明石藩主を列挙
しておきます。
明石城の築城は元和4年(1618)で初代城主は小笠原忠真。
この頃船上城から現在の明石城の位置に築城されました。
2代目城主は松平庸直(1633-1634)
3代目城主は松平光重(1634-1639)
4代目城主は大久保 忠職(1639-1649)
5代目城主は松平山城守忠国(1649-1659)
6代目城主は松平日向守信之(1659-1679)
7代目城主は本多政利(1679-1682)
8代目城主は松平直明(1682-1721)
以降松平(越前)家が廃藩置県まで明石城主として続いた。
9代目以降 松平直常-直純-直泰-直之-直周-斉韶-斉宜-慶憲-直致
松平信之に関する参考資料として今回、笹倉忠雄氏著の歴史と神戸 14巻3号(71号)
(1975)のPage25-29を参照した。
松平信之は江戸時代の著名な陽明学者熊沢蕃山(了介) を保護し新田開拓事業で、
顧問として熊沢蕃山の洪水や農業に関する知識を活用しました。
(明石名勝古事談)