松瀬青々先生の歌碑 in敦盛塚 |
上の写真は「雨中 敦盛そばへ去りし夜客や後の月」の歌碑である。敦盛塚の西側にあり、
昭和44年10月26日神戸漁火会により建立されました。
松瀬青々先生は関西の高浜虚子とも言われた有名な俳人である。
松瀬青々は大正11年8月から11月まで西須磨23の平井隼之助氏の西隣に仮寓されて
おりこの句はその時の作である。
尚、そばは塚として松瀬青々先生が主宰した倦鳥誌に掲載されている。
松瀬青々は本名を弥三郎、明治2年(1869)5月15日大阪船場の薪炭商加賀屋の長男
として生まれた。
北浜上等小学校を卒業後、丁稚奉公や呉服行商をしたが、そののち、第一銀行大阪支店
に入社した。第一銀行では荒木井蛙、渡邊葉齋らと俳句をつくる活動をしていた。
蓼生園中村良顯に和歌を学ぶ。
幼少のときから漢詩、詩歌を学び、俳句を新聞や「ホトトギス」なとに投句していた。
28歳の頃から俳句を学び「ホトトギス」に投句したのがきっかけで子規と会い、
勤めていた第一銀行を辞めて明治32年(1899)上京し「ホトトギス」の編集にあたった。
明治33年(1900)に帰阪後は朝日新聞社に入社。大阪朝日新聞社の会計部に勤めながら、
朝日俳壇の選句を担当、東の子規、西の青々と言われ大阪に活況をもたらした。
明治34年(1901)「宝船」(のちに「倦鳥」と改題)を創刊し、没年までこれを主宰した。
明治39年の年の瀬に、生地の大川町(中央区の北浜4丁目)から八坂神社の近くに
(現在の住所で大阪市福島区海老江4-10-17)移り大正10年まで住んでいた。
さらに没年まで大阪周辺に住み青木月斗(明治32年に車百合を創刊し、からたちを主宰した)
や山茶花を主宰した野村泊月雑と並び大阪俳壇の基礎をきづいた。
また、句集「松苗」「妻木」「鳥の巣」などを発刊した。昭和12年(1937)1月9日没。
松瀬青々の俳句には
「はすのあめおぐらひとつにいきおそし」 宇治の小椋池での蓮見学の様子を詠む。
「甘干に軒も余さず詩仙堂」
のように固有名詞(地名など)を使用されている句が多い。