雄県兵庫の成立 |
資料が多数展示されています。
その中に雄県兵庫の成立についてをテーマとしたパネル展示されています。
下の写真はそのパネルにあった明治9年(1876)頃の兵庫県庁の庁舎。
兵庫県の成立過程については兵庫県のHPに詳しく解説されています。
第1次兵庫県(明治元年(1868)~明治4年(1871))
慶応4年(1868)5月に1次兵庫県が成立しています。発足当時の兵庫県は
兵庫(神戸)港を中心とした摂津国武庫郡以西の4郡及び播磨国の7郡に散在
する旧幕府直轄地で村の数は211、石高は6万6千石でした。
初代県令は伊藤博文で「兵庫論」と呼ばれる藩廃止の意見書を朝廷に提出
したことから長州藩の反感を買い知事を辞職します。
第2次兵庫県(明治4年(1871)~明治9年(1876))
明治4年7月の廃藩置県により従来の大名領がそのまま県になりました。
明治4年11月には3府302件をすべて廃止し、3府72件に再編成された。
町村数609 人口14万8千人の県となりました。
このころ県知事となった神田幸平(蘭学者)は先駆的な施策を実行し「経済」という
言葉を初めて使用しました。
第3次兵庫県(明治9年(1876)~明治22年((1889))
明治9年に明治政府は3府35県としました。
この年の8月に兵庫県は播磨県及び但馬全域と丹波の氷上・多紀の2郡名東県の
淡路を併合してほぼ現在の兵庫県に近い形となりました。
人口は134万5千人となりました。当時は東京府、大阪府をしのいでいました。
兵庫県の併合の過程で櫻井勉翁の米寿賀集の資料が貴重なものです。
この中に豊岡県と鳥取県を兵庫県に併合する案もあったことが記載されています。