仏教伝来 |
教科書では538年百済の聖明王が仏像と経論を
欽明天皇政府に献じたとされている。
当時の大和朝廷は蘇我稲目と物部尾輿が2大勢力
であった。
当時、諸豪族に与えられた姓は臣と連であるが、
臣の代表が蘇我で連の代表が物部である。
臣は平群、蘇我、葛城などは王権にたして独自性を
もっていたのに対し大伴、物部、中臣らの連は王権
に対して臣従をその本質としていた。
仏教は外来のものでありこの宗教を受け入れるか
どうかで意見は分かれ、崇仏派の蘇我氏と
排仏派の物部氏は対立します。
百済の聖明王からの仏像と経典献上の年について、
奈良時代の政府が刊行した「日本書紀」には552年
となっていますが、「上宮聖徳法王帝説」や
「元興寺縁起」の資料により538年説が有力で教科書
にもこの年号が書かれています。
その後、推古2年(594)仏教興隆の詔が発せられ日本に
仏教が根付いていく。