インカ帝国とミイラの伝統 |
NHK BSハイビジョンで2009-7-16の午前中にあり視聴した。
標題は失われた文明 インカ・マヤ 第1集 アンデス ミイラと生きる
インカ帝国の前身となるクスコ王国は13世紀に成立し初代の皇帝は
マンコ・カパックである。
クスコ王国はケチュア族が母体で、自分たちの国をタワンティンスウユ
(Tawantin Suyu )と呼んだ。
その意味は「4つの部分が集まったもの」であり、事実、最終的には
インカの国土は4つの州または4つの部分から成り立っていた。
征服の歴史は以下のとおりである。
大インカ帝国の王国建設のための征服活動は、第8代のビラコチャのときに
始まったとされている。
1438年ごろ、クスコが巨大なチャンカ国に侵略されたとき、ビラコチャは
皇太子のウルコン王子を連れてクスコを離れた。
インカ・ユパンキ王子はクスコに留まって防戦し、チャンカを追い払った。
この王子が1438年に第9代王として即位したパチャクティである。
このパチャクティの政権は1471年まで続く。
第10代はトゥパク・インカ・ユパンキ で1471年から 1493年まで続き
この時代の1476年ごろこのインカ帝国の体制が完成したとされている。
さらに征服戦争は第11代ワイナ・カパック(在位:1493年 - 1527年)まで続き、
1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで続いた。
最盛期には、インカ帝国は80の民族と1,600万人の人口をかかえた。
上記のインカ帝国が栄えたアンデス各地で、いまミイラの発見が相次いでいる。
特にクスコの南西の海岸沿いの砂漠地帯イロ(ilo)周辺から出土したミイラを日本の科学者
国立科学博物館の篠田謙一氏他はDNA分析などで分析し、さらに年代分析の結果
ミイラは今から500年前から2,700年前のものであることが判明した。
現地でのミイラの研究者はソニア・ギエンである。
太陽神を信仰した住民たちは、皇帝を神の子として崇拝しインカ帝国の繁栄につくした。
すまわちインカ皇帝も死後ミイラとなり、生きた存在として自分の領土を保有し続けた。
相続を受けられない次の皇帝は、新たな領地を求めて、各地に遠征を続けた。
そのためインカ帝国は、皇帝が変わる度に領土を増やし、急速に拡大した。
年に一度の太陽の祭りでは皇帝のミイラを輿に乗せ、他の皇帝ミイラを尋ねる儀式もあった。
アンデスのミイラは、家の一角に置かれ、服を着せ食事を与えるなど、
「生きている存在」として扱われていた。人々はミイラと共に暮らしていた。
その伝統は今も残る。自分の子供を幼いときに失った両親は子供が死後も
困らないようにたくさんの食料や日強品を副葬品としてミラと一緒に埋めた。
インカ帝国にはカパコチャという、子供をいけにえにし神に捧げる習慣もあった。
今でもリャマの心臓を生贄に捧げる儀式が残っている。
1532年、現在のペルー北部の港にフランシスコ・ピサロが上陸し、
168人のスペイン人を率いて、アンデス山中の町カハマルカへ向かった。
インカ帝国はその頃、王位継承を巡って激しい内乱状態にあった。
12代皇帝ワスカル(在位:1527年 - 1532年 )は南北に伸びた領土の
各地の先帝のミイラを一つにまとめようとした。
スペイン軍は、この混乱に乗じて、カハマルカで鉄砲と馬を使った奇襲攻撃を展開。
皇帝を護衛していた4,000人の半数があっけなく討ち死にした。
ついに最後の皇帝(第13代)となったアタワルパ(在位:1532年 - 1533年)
も捕らわれ、監禁された。
ピサロは身代金として部屋いっぱいの黄金とその2倍の銀を要求。
これに応え、皇帝は国中から集めた金銀を差し出した。
だが、宝を手に入れたピサロは非情にもアタワルパを処刑。ここにインカ帝国は滅亡した。
インカ帝国を滅ぼしたスペイン侵略軍を率いたF・ピサロも暗殺された後ミイラ化された。
現在リマ市のカテドラル(中央大寺院)の中にある礼拝堂のガラスケースの中に
全裸のミイラ姿で収められている。
なぜスペイン人であるピサロがミイラにされたのか----謎が残る。
マチュピチュはアンデス山中で発見され、「空中都市」とも呼ばれるインカ帝国最後の砦である。
今後、機会があれば是非行ってみたい場所である。
インカ帝国関連の旅行記にリンクさせていただきます。