平盛俊堂と墓 on 2009-9-19 |
副題は「騙し討ちされた平家の将 平盛俊(たいらのもりとし)」とします。
生まれ年は不詳 寿永3年(1184)2月7日没
官位は越中守(越中前司)
平盛俊堂と墓の住所:神戸市長田区庄山町3丁目
まず地図を示します。板宿の商店街のはずれにあります。
最寄り駅は神戸市営地下鉄板宿駅。又は山陽電鉄板宿駅。
地図だけでも判り難いと思いますので和菓子の京香堂と徳福歯科医院を
目印とするのが良いと思います。(下の写真が平盛俊堂と墓の附近を撮ったものです)
まず、一の谷の合戦(1184年2月7日)に至るまでの経緯を記します。
寿永2年(1183)7月28日木曽義仲の入洛の3日前平氏一門は京都での戦いは
忍ばないとして西国に落ちた。
木曽義仲軍は京都で乱暴狼藉や略奪行為があり、且つ朝廷と対立することになった為
後白河法皇は鎌倉の源頼朝に上洛を要請したが頼朝は鎌倉を留守にできないと
断りの文を後白河法皇に送った。
寿永2年(1183年)11月19日、木曽義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して、
後白河法皇と後鳥羽天皇を五条内裏(鳥羽離宮)に幽閉、政権を掌握した法住寺合戦が起きる。
この報告を受けた頼朝は同年12月中旬京都へ弟の源範頼を総大将とする約3千の大軍を
向かわせた。それより以前の10月5日に義経は500騎を率いて鎌倉を出発。
寿永3年(1184)1月20日義経軍は宇治川で源範頼は瀬田(勢田)において木曽義仲軍を
討ち破った。義経軍はそのまま京都に入った。
寿永3年(1184)正月26日後白河院は平氏討伐の院宣を発した。
源氏方は京都に集結し正月29日源範頼軍は山陽道を源義経軍は丹波路を進んだ。
平氏は摂津の国福原附近に本営を置き東の生田の森を大手(表側)とし、西の一の谷を
搦手(からめて)=裏側として夫々木戸(城戸)を設け源氏との戦いに臨んだ。
丹波路から外れ山岳地帯を進んだ義経軍には多田行綱の300騎も加わり
迎え撃つ平家方では、大将軍小松新三位中将資盛、同少将有盛、丹後侍従忠房、
備中守師盛、侍大将としては、平内兵衛清家、海老次郎盛方をはじめとして、
総勢三千余騎が小野原から三里離れて三草の山の西の麓に陣を構えていたが、
土肥次郎の進言もあり小野原の民家に火をつけて夜討ちを敢行し平氏は総崩れとなり
高砂あたりまで退陣し屋島に逃れていきました。(寿永3年2月4日のことでした)
さらに、義経は兵を進め三木から藍那を経て坂落(一の谷or鵯越)の一の谷合戦に
進んでいくのである。この時に山道を先導したのが鷲尾氏である。
鵯越の出口夢野に平教経が守り、北城戸の防御には越中前司平盛俊があたり
鵯越から妙法寺への路を防御したのが平教経の兄の平通盛である。
寿永3年2月7日の一の谷の合戦で義経は一の谷西門に進み平氏を打ち破ることに
なります。
西門の敗戦を受けた北門の大将越中前司平盛俊は、明泉寺から南へ逃げ延びる
途中で、源氏の武蔵国住人猪俣小平六則綱と一騎打ちとなります。盛俊がたちまち則綱を
組み伏せます。だがずるい猪俣小平六則綱の命乞いに、力もちだが気のやさしい平盛俊が
これを聞き入れてしまってあぜ道で二人が休んでいるところへ、源氏の人見四郎が近づいて
きました。近づく敵に気を奪われている最中に、盛俊は、則綱に襲われ
首を討たれてしまいました。この地で平盛俊は無念の最後を遂げたと伝えられています。
さらに詳細は 平家物語 第9巻 越中前司最期を読まれればよいと思います。
上の写真は盛俊堂をアップで撮ったもので、下の写真は盛俊堂を含む周辺を撮ったものです。
上の写真は現地の説明板を撮ったもので庄山「平盛俊墓」附近地図です。
下の写真は盛俊堂の中の平盛俊墓で五輪塔の1基は室町期より前のものと
推定されています。