高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その15 最終回)苅萱堂から一の橋 |
高野山訪問記も今回で15回を数えました。今回が最終回となります。
苅萱堂の住所:和歌山県伊都郡高野町高野山479 TEL:0736-56-2202
地図はこちら。
まず苅萱堂ですが父苅萱道心(かるかやどうしん)と母千里(ちさと)姫、
その子石童丸の親子の悲劇の物語を絵で紹介する堂です。
苅萱道心は、もと加藤左衛門繁氏(かとう さえもん しげうじ)といい、
平安末期(十ニ世紀後半)、筑紫(つくし)の国(福岡県)の守護職でした。
加藤左衛門繁昌には妻桂子との間に、後継ぎがありませんでした。
繁氏(しげうじ)は、妻桂子(かつらこ)と共に、平穏に暮らしておりましたが、
父繁昌(しげまさ)の旧友朽木尚光(くちき なおみつ)の遺児千里(ちさと)の
不幸な境遇に同情し、自分の館に妾として引きとったことからこの悲劇が始まりました。
繁氏は美貌の千里姫を寵愛し、その間に生まれたのが石童丸です。
あるとき、表面は仲睦まじい妻と千里の本心を見抜いた繁氏は、わが身の罪の
深さに驚き、家も地位も捨てて京都に上り、はじめは法然上人の弟子になりました。
その後高野山に登り、蓮華谷(れんげだに)に庵(いおり)をむすび、
苅萱道心と称して、修業の生活に入りました。
物語は、高野山に出家した父親を追って麓の学文路(かむろ)(現在の橋本市)まで
来るが、女人禁制のために母を残し、石童丸だけが高野山に入山。修行中の父に、
いつわりの父の死を告げられ、学文路に戻るがすでに母千里は他界。
石堂丸は高野山に戻って出家し、実の父とは知らずに苅萱道心について厳しい
修行を積んだという。高野聖によってこの物語が全国に語り伝えられた。
上下の写真は現在(2009-10-21)の苅萱堂(かるかやどう)です。
上の写真は石童丸の母親千里姫の霊を弔った宝篋印塔。
上の2枚の写真は苅萱堂の近くの院の門にある木彫です。なかなかの労作だと思います。
苅萱堂から一の橋に向かう途中で見つけた修業僧(まだ学生か?)の隊列で
思わずシャッターを押しました。
一の橋から奥の院まで続く杉の大木群。その中に20万基を超えると言われる墓碑が
あります。
今回の旅行で最大の収穫は、寛永12年(1635)阿島藩知久氏が高野山奥の院の
弘法大師御廟の東側に建てた供養等を見つけることが出来たことである。
ここは撮影禁止になっていた為、写真はありません。
知久則直に関する資料1
知久則直に関する資料2
知久則直に関する資料3
知久則直に関する資料4
知久則直に関する資料5
上の写真は司馬遼太郎氏の文学碑で高野山管見「歴史の舞台 文明のさまざま」から
抜粋された文章が刻まれています。