楠正成終焉伝承の地 楠谷勝負が池跡 |
作製した標題の説明板を見つけました。
以下は説明書きに記載の内容に若干加筆したものです。
建武3年(1336) 湊川の戦いで足利直義の軍に敗れた楠木正成は、
この場所までたどり着いた後、在家で切腹したとされている。
太平記には、「湊河の北にあたりて在家の一村あるけるなかに走り入りて腹を切らん」
とある。明治44年(1911) 仲彦三郎「西摂大観」では、その場所を奥平野字楠に比定。
また「花熊福徳地の略縁起」によれば、当寺(福徳寺)の本尊 観世音菩薩は、
楠木正成から託されたもので、寺はかつて楠谷にあり、後は池として残っているとされている。
江戸時代の奥平野村絵図からも、奥平野浄水場のあたりがその池に相当する場所であると
思われるが、現在浄水場の敷地内には面影を偲ばせるものは残っていない。
上の写真(水の科学博物館に入る沿道)の左下付近に下の写真の説明板があります。