豊地(といち)城跡 現地説明会 on 2010-2-27 |
写真紹介します。
現地説明会は兵庫県立考古博物館のメールマガジンで下記の紹介があり、
急遽出掛けました。 13:30からの説明会に対して15:00頃に現地に
到着したために、詳しい説明は聞けませんでした。
日時 2月27日(土) 13:30~ 小雨決行
場所 小野市中谷町
連絡先 TEL 0794-67-0991(現地事務所)
内容 豊地(といち)城跡は戦国時代末期の城で発掘調査の結果、主郭
を囲む堀を検出し大量の瓦が出土しました。これにより、この城
が瓦葺の城郭であった可能性が高まりました。
この時期、瓦葺の城郭は県内で三木城や有岡城など有力な城に限
られており、非常に重要な発見となりました。
住所:小野市中谷町字城ノ土井
地図はこちら
豊地(といち)城は地名から別名東条城とか下記の依藤氏の居城ということから
播州依藤館とも呼ばれています。
赤松氏の家臣で東播磨の豪族・依藤氏の居城豊地(といち)城がありました。
築城時期が不明で且つ、幾度も城主が変わっています。
南北朝期には丹生山城や東条城(この豊地城の前身と推測されます)を
拠点に金谷経氏が丹生山明要寺の宗徒や南朝方の兵を率いて戦っていますが、
建武3年(延元元年)(1336)東条城は足利軍に焼かれています。
下の4枚の写真は観音堂周辺の写真です。
こちらは加東四国88ヶ所の第67番の札所になっています。
御詠歌 「分け入るや住行向地の遠ければ豊地より先ず足がためせん」の石碑
がありました。
下の2枚の写真は観音堂の床下にある瓦です。立替以前のものを保存したものか?
上の写真は東側にある主郭(中央より左側)であったところで、建物の規模は
東西52メートル、南北56メートルの範囲だと今回の調査で確定されたそうです。
上の4枚の写真は西側の郭の発掘現場です。
上の2枚の写真は豊地城跡に位置する八幡神社の写真です。
上の写真はみやま保育園の東側にある池である。この池は豊地城があった時代の
外堀であったと推定されています。
上の写真は池田石の採掘現場(石切り場)の跡です。
この石は砂岩で加工し易く家の土台石として現在も使われていました。
兵庫県立考古博物館による詳細説明。
今回の調査で永禄年間(1558~1570年)に別所重棟が依藤氏を滅ぼし別所氏が
堀の掘削や瓦ぶき建物の建築など大規模改修を行ったことが判明したそうである。
兵庫県内で戦国時代の瓦葺建物が建てられた城郭は三木城(三木市)、御着城(姫路市)
置塩城(姫路市)、有岡城(伊丹市)、端谷城(神戸市西区)だそうです。
1580年に羽柴秀吉の命で破壊されるまで別所氏が城主として支配し続けた。