3月14日(日)のNHK大河ドラマ龍馬伝 第11話 土佐沸騰 |
「龍馬は結婚を約束した平尾加尾が京都に送られてしまうことを知り、
落胆する。そんな中、岩崎弥太郎が長崎で藩の金を使い込み(100両)
解任されて土佐に戻ってきた。一方、江戸では朝廷を無視して開国した
井伊直弼(井伊大老)が水戸浪士たちによって殺される。
武市半平太は土佐藩を攘夷一色に染め、薩摩藩や長州藩と協力して
朝廷を動かし、幕府の開国政策を改めさせようと考える。」
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坂本龍馬の辿った道を巡る旅
坂本龍馬ゆかりの地
高知新聞坂本龍馬の部屋
東京の坂本龍馬ゆかりの地
龍馬の道
実際に、観た結果では、文久元年(1861年)3月4日に土佐藩で起きた
井口村刃傷事件(いぐちむらにんじょうじけん)と、これによる上士と下士(郷士)
の対立と土佐勤皇党の成立までの過程が描かれていました。
フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)による事件の発端と事件後の
出来事について引用させていただきます。
「文久元年3月4日の夜、小姓組・山田新六の長男・山田広衛と茶道方・益永繁斎が、
節句祝いの宴会の帰りに永福寺という寺の門前で郷士・中平忠次郎と肩がぶつかる。
当初、忠次郎は非を認め謝罪し立ち去ろうしたが、相手を郷士と見た山田は
酒の勢いもあり忠次郎を罵倒し口論に到る。
口論の末に逆上した山田は抜刀し、これに応戦する形で忠次郎も抜刀。
しかし、土佐で小野派一刀流の師範代をつとめるほどの実力の持ち主で、
鬼山田と恐れられる山田に敵わず忠次郎は殺害されてしまう。
忠次郎に同行していた宇賀喜久馬は忠次郎の兄・池田寅之進にこの事態を知らせ、
2人は急いで現場へ駆けつけるが、時既に遅く、忠次郎は殺害された後だった。
近くの小川で刀を洗い、喉の乾きを潤している山田を発見した寅之進は背後から
袈裟懸けに斬り掛かり山田を殺害、近くから提灯を借用して現場に戻ってきた繁斎も殺害した。
寅之進は当初、弟の亡骸を運ぼうとするが、現場に駆けつけた上士・諏訪助左衛門と
上士・長屋孫四郎の2人が「死体をみだりに移動させることは禁じられている」と彼の行動を咎めた。
その為、寅之進も一旦、弟の亡骸を寺の門前へと戻し、改めて上士たちの亡骸は山田家に、
忠次郎の遺体は池田家へと引き取られる。
翌朝には事件は人々の知るところとなり、山田の家には上士達が、寅之進の家には郷士達が集まる。
両者、互いに対決せんと息巻いており、一触即発の危機を迎えていた。
この時の郷士側のリーダーが当時25歳の坂本龍馬であった。
上士側のリーダーであった吉田東洋は、藩お取り潰しの事態を避ける為にも、
事を穏便に解決する必要があるとして、山田を斬り殺した事件当事者の命一つで
解決するように命じる。しかし、これを聞き入れない一部の上士達が池田宅に乗り込んでいった。
池田宅に押しかけた上士達は、当事者である寅之進と喜久馬の身柄の引渡しを要求。
これに龍馬は応じず、逆に2人の助命を主張。穏便に解決する為にも2人を引き渡せと
譲らない上士に対し「どうしても2人を引き渡せと言うなら、我々郷士は命がけで守る。
戦になって、藩お取り潰しになるまでだ」と龍馬は徹底抗戦の構えを見せ、
両者の緊張は高まっていた。」
大河ドラマでは坂本龍馬が丸腰で吉田東洋のかけあい、武市半平太が仲裁として
やってきた後藤象二郎に池田寅之進の切腹を容認するものであった。
半年後の9月、下士は武市半平太(瑞山)をリーダーに土佐勤王党を結成する。
龍馬は9番目に加盟した(土佐では加盟第1号)