黒船神社 黒船来航と日米和親条約 |
住所:東京都台東区寿4-3-1
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上の写真は東京都台東区寿町にある黒船神社です。
有名な黒船のゆかりというより江戸時代の町名が
黒船町ということでこの名前がついたらしい。
しかしながら徳川幕府が終わりを告げるきっかけになった。
黒船来航に少し話しを変えていきます。
嘉永6年(1853)7月8日にMatthew Calbraith Perry提督
が率いる4隻の黒船が浦賀沖に現れた。
来航日は6月3日 号砲を撃つなどして強硬に開国をせまった。
アメリカは弘化3年(1846)5月27日にも東インド艦隊の指令長官
ビットルを派遣して開国をせまっているが、このときは小型軍艦のコロンバスが
単艦できたため浦賀奉行からの退去命令に従わざるを得なかった。
4隻の構成は以下のとおり。
1)旗艦で蒸気推進艦であるサスケハナ号(蒸気外輪フリゲート艦)
2)蒸気推進艦ミシシッピー号(蒸気外輪フリゲート艦)
3)帆船のサラトガ号
4)帆船プリマス号
「泰平の ねむりをさます 上喜撰 たった4はいで 夜も眠れず」
上喜撰は高級宇治茶で4杯も飲むと眠れなくなるほどカフェインが強い
庶民はそれを蒸気船にかけて黒船来航の混乱ぶりを狂歌に託した。
坂本龍馬もこの蒸気船(蒸気外輪フリゲート艦)を目の辺りに見て
強烈な印象をもったとされています。
この時にアメリカのフィルモア大統領からの親書を浦賀近くの
久里浜で受けた。(徳川側使者:戸田伊豆守と井戸石見守)
また次回はさらに大規模な艦隊を率いて日本に開国を求める
ことを予告して同年(1853)7月17日に浦賀沖を去った。
老中阿部正直は、攘夷派の水戸藩の徳川斉昭公を海防参与に加え
海防体制を整えるとともに開港要求にどう対処すべきか
大名、諸侯に諮問している。
阿部正直の2つの決定が徳川政権を終了させることとなった。
1)幕府の特権である幕府の一存による決定の放棄
2)大名による沿岸警備の奨励で諸大名の軍事力を制限する
権限を弱めた
翼年の嘉永7年(1854)1月16日ペリー提督が率いる7隻の船団で
2月13日に現れ開港を求め結局3月8日から日米和親条約の交渉
が行われ3月31日に下田、函館の2港の開港を含む日米和親条約が
締結された。その後安政5年(1858)の5カ国との修好通商条約
により完全開国となった。