2010年 05月 17日
三士誠忠の碑----岩国市横山 |

上の写真が三士誠忠の碑です。
碑に書かれている内容は齊藤 信行氏が作成されたWebに書かれていますので
リンクさせていただきます。三士誠忠の碑に書かれている文章。
また京都大学の京都大学附属図書館 維新資料画像データベース資料 #00053
にも岩国藩三士誠忠の碑の電子データがありますのでリンクさせていただきます。
明治維新の際に必死組(総督:東崇一 参謀:栗栖天山)を組織し
活躍した東沢寫、栗栖天山、南部五竹の三士の誠忠の
履歴が書かれている。
Wikipediaによれば
「東沢瀉、栗栖天山、南部五竹を岩国では三士と称する。
彼らの活躍を後世に伝えるべく、明治25年(1892年)藩公および
旧藩有志により、吉香神社境内に三士誠忠之碑が建立された。」
とあります。
さらに東沢瀉について同じくWikipediaより引用しますと
「東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日(1832年11月1日)
- 明治24年(1891年)3月28日)は、日本の武士・儒学者(陽明学)
・岩国藩士。名を正純、通称崇一郎、号は白沙、沢瀉。沢瀉の号は、
明治になってから用いている。
天保3年(1832年)10月9日、周防国岩国錦見に生まれる。
藩校養老館では、大草馨堂、南部五竹と並んで学内の三博士と称せられた。
その後、江戸に出て佐藤一斎らに陽明学を学ぶ。
文久3年(1863年)3月、養老館の助教に任用されるが、朱子学中心の
学風と合わず、1年で辞任した。岩国藩の佐幕的姿勢に満足せず、
尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、栗栖天山や南部五竹らと共に
兵制改革を進める。結果、岩国藩に精義隊(必死組より改名)・
日新隊・建尚隊・敬威隊の四隊が編成されることとなった。
しかし、精義隊隊士の粗暴な行動が問題になり、沢瀉と天山が
責任をとって自首、慶応2年(1866年)11月17日、両名は柱島へ
流罪となる。天山はまもなく柱島を脱出、後自決する。
沢瀉はそのまま柱島に留まり、明治2年(1869年)秋、戊辰戦争での
精義隊の活躍もあり赦された。
明治3年(1870年)10月、号を白沙から沢瀉に改め保津村に沢瀉塾
を開き、明治17年(1884年)までの14年間、後進の教育に尽くした。
現在も保津に記念館がある。
保津の記念館に関する小生作成のWebサイト1
岩国の偉人東沢瀉の像と偉業について小生作成のBlog
by seiyo39
| 2010-05-17 16:45
| その他地域散策記
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