翠紅館跡 on 2010-6-24 |
「ここに幕末のころ翠紅館と呼ばれていた屋敷があり、たびたび志士達の
会合の場となっていた。
もとは正法寺の塔頭のひとつがあり、眺望も良く、会合に利用されていたのを
鎌倉時代に公家の鷲尾家が買い取り、その景観のすばらしさから翠と紅も
すばらしい館という意味で翠紅館と名付けられた。
鷲尾家から西本願寺の東山別院に寄進された。
文久3年(1863)正月27日には土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多、
久坂玄瑞ら多数が集まりついで同年6月17日にも、長州藩の長州藩の
桂小五郎、久留米藩の真木保臣(まきやすおみ)=和泉守らが集まった。
この数年前から攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつ
あったが、これら各藩の志士代表者会議で、攘夷の具体的な方法が検討
され、世にこれを翠紅館会議という。同年8月13日には孝明天皇の
大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達した。
しかし8月18日に政変が起こり、その結果攘夷派は失脚、代わって
公武合体派が主導権を握り幕末の政局は混迷の度を増していった。」
現在は料亭として使用されているようです。
眺望に優れていたので,庶民の遊興や文人の詩歌・書画会などの
貸席として使われ,叔阿弥と呼ばれていました。
上の写真は翠紅館跡の石碑。
翠紅館入口の門構え。
Wikipediaによる尊皇攘夷の解説(英文)
尊皇 Revere the Emperor
攘夷 Expel the Barbarians