鵯越の逆落しで新説 |
神戸市史の第10巻「歴史編II 古代・中世」が本年6月?に刊行され、その中で
鵯越の逆落しは義経ではなく多田行綱(ゆきつな)によるという新説が記載
されていますので紹介します。
上記の神戸市史のPage356よりPage368にかけて一の谷合戦に関する
記述の中でこの新説がその根拠とともに述べられています。
たしか神戸新聞でもその紹介記事があったことを記憶していますが、切り抜き
を忘れてしまったので紹介内容は不明です。
一ノ谷合戦(1184年)では史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」や「平家物語」と、
京都の貴族右大臣九条兼実の日記「玉葉(ぎょくよう)」を比較検討。
いわゆる「鵯越の逆落し」は源義経の奇襲として長く語られてきたが、実際には
摂津源氏の多田行綱(ゆきつな)が三木から夢野(現兵庫区)に抜ける道を突破した
攻撃だったとの説を示した。
玉葉の2月8日条に書かれている内容で
「多田行綱、山方より寄せ、最前に山手を
落とさる」
という記述を根拠とし、さらに山の手と鵯越が同一の場所であることを示した。
湊川合戦において足利尊氏方の武将斯波(しば)高経が攻め込んだ場所を
「梅松論」では鵯越、太平記では山の手としている点である。
著者は「義経は一ノ谷(現須磨区)を攻略し、その活躍が英雄的、超人的に語り継がれる
過程で勝敗を決する「逆落し」の物語が生まれた」としている。
玉葉が合戦直後の伝聞による記載であり混乱の記述(例:城郭が焼かれてたてこもった
兵士がすべて殺害され、海上の舟の多くも焼き討ちされて宗盛も焼け死んだのではないか
とする噂も記載されている。)もあるとの指摘もされています。
源義経、多田行綱のいずれにせよ鵯越の逆落しなどの源氏の攻撃で平氏が大敗
したことは事実である。
一の谷(鵯越)の逆落しをした場所について、一の谷説、鵯越の説または
逆落とし自体を虚構とする説などがあろとのみ述べられており、今回の神戸市史では
はっきりとした結論には言及されていません。
須磨寺の地図に記載されている一の谷の逆落としの場所の写真(下)を参考に
載せておきます。
一の谷の合戦(1184年2月7日(旧暦))に至るまでの経緯を記します。
寿永2年(1183)7月28日木曽義仲の入洛の3日前平氏一門は京都での戦いは
忍ばないとして西国に落ちた。
木曽義仲軍は京都で乱暴狼藉や略奪行為があり、且つ朝廷と対立することになった為
後白河法皇は鎌倉の源頼朝に上洛を要請したが頼朝は鎌倉を留守にできないと
断りの文を後白河法皇に送った。
寿永2年(1183年)11月19日、木曽義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して、
後白河法皇と後鳥羽天皇を五条内裏(鳥羽離宮)に幽閉、政権を掌握した法住寺合戦が起きる。
この報告を受けた頼朝は同年12月中旬京都へ弟の源範頼を総大将とする約3千の大軍を
向かわせた。それより以前の10月5日に義経は500騎を率いて鎌倉を出発。
寿永3年(1184)1月20日義経軍は宇治川で源範頼(のりより)は瀬田(勢田)において
木曽義仲軍を討ち破った。義経軍はそのまま京都に入った。
寿永3年(1184)正月26日後白河院は平氏討伐の院宣を発した。
源氏方は京都に集結し正月29日源範頼軍は山陽道を源義経軍は丹波路を進んだ。
平氏は摂津の国福原附近に本営を置き東の生田の森を大手(表側)とし、西の一の谷を
搦手(からめて)=裏側として夫々木戸(城戸)を設け源氏との戦いに臨んだ。
2月4日早朝大江山から山岳地帯を進み三草山に進んだ義経軍には多田行綱の300騎も加わり
迎え撃つ平家方では、大将軍小松新三位中将資盛、同少将有盛、丹後侍従忠房、
備中守師盛、侍大将としては、平内兵衛清家、海老次郎盛方をはじめとして、
総勢三千余騎が小野原から三里離れて三草の山の西の麓に陣を構えていたが、
土肥次郎、田代信綱らの進言もあり小野原の民家に火をつけて夜討ちを敢行し
平氏は総崩れとなり高砂あたりまで退陣し屋島に逃れていきました。
(寿永3年2月4日の夜のことでした)
さらに、義経は兵を進め三木から藍那を経て坂落(一の谷or鵯越)の一の谷合戦に
進んでいくのである。この時に山道を先導したのが鷲尾三郎である。
鵯越の出口夢野に平教経が守り、北城戸の防御には越中前司平盛俊があたり
鵯越から妙法寺への路を防御したのが平教経の兄の平通盛である。
寿永3年2月7日の一の谷の合戦で義経は一の谷西門に進み平氏を打ち破ることに
なります。
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