2010年 08月 27日
須磨寺の良寛さま須磨紀行と良寛さまの直筆の句を刻んだ石碑 |
大本山須磨寺頭正覚院の前に 良寛さま須磨紀行と良寛さまの直筆の句を刻んだ石碑
がありその写真を2010-8-19に撮りましたので写真紹介します。

上の写真は石碑の全体の写真です。
昭和62年(1987)3月3日に建立され、除幕式は同年5月31日に行われたようです。

上の写真は石碑の文の内容です。写真ですとわかりにくいので書いておきます。
文頭に良寛さま直筆で「すまてらの むかしを 問へば 山桜」
「すまてらの むかしを 問へば 山桜」 沙門良寛 書
あなたこなたとする中に日くれければ、宿をもとむれども、
ひとりものにたやすくかすべきにしもあらねば、をとしつけて、
「よしや寝む すまのうらわの なみまくら」
とすさみてつなじき天神のもりを、たづねてやどる。
里を去ること、一丁ばかり、松の林の中にあり。
春のよのやみはあななし梅のはな、いろこそ見えね、をりをりは、
よるのあらしにさそはれてすみのころもに、うつるまで、ほんのりにほふ。
石どうろうの火ハきらめき、うちよするなみのこゑも、つねよりは静かにきこゆ。
板じきのうへに、衣かたしきて、しばしまどろむかとすれバ、雲の上人とおぼしきが、
うすぎぬに、こきさしぬきてして、紅梅の一技をもちて、いづこともなくきたりたまふ。
こよひは花もよし、しづかにものがたりせんとて、うちよりぬるに、よるのことなれば、
けはひもさかにみえねども、ひさししくちぎり人のごとくにおもひ、むかしいま、
こころのくまぐまをかたあかすかとすれば、ゆめはさめぬ。
ありあけのつきに、浦風の粛々たるをきくのみ。手を折て、うちかぞふれば、
む月廿四日のよにてなんありける。(良寛さまの須磨紀行より)
昭和62年3月3日
大本山須磨寺頭正覚院 選文 谷川敏朗
書 加藤僖一
製作 速水史朗
建立 三浦真厳

上の写真は石碑の遠景で石碑の左側には阪神淡路大震災で亡くなられた方の
供養の碑があります。
須磨紀行というのは、良寛様(1758~1831)が備中玉島の曹洞宗円通寺をたって
郷土の越後に戻られるときに書かれた良寛様の旅日記で正式には関西紀行と呼ばれ
前半部が高野紀行、後半部が須磨紀行と呼ばれています。
時期については諸説があり、はっきりしていないようですが寛政8年(1796)説が
有力だと言われています。良寛さまが39歳のときの紀行文です。
平成3年(1991)5月、新潟県の糸魚川市(いといがわ)歴史民族資料館で、
幻の書といわれた「須磨紀行」が京都紀行とともに発見されたそうです。
よって関西紀行は3部作以上あることとなった。
がありその写真を2010-8-19に撮りましたので写真紹介します。

上の写真は石碑の全体の写真です。
昭和62年(1987)3月3日に建立され、除幕式は同年5月31日に行われたようです。

上の写真は石碑の文の内容です。写真ですとわかりにくいので書いておきます。
文頭に良寛さま直筆で「すまてらの むかしを 問へば 山桜」
「すまてらの むかしを 問へば 山桜」 沙門良寛 書
あなたこなたとする中に日くれければ、宿をもとむれども、
ひとりものにたやすくかすべきにしもあらねば、をとしつけて、
「よしや寝む すまのうらわの なみまくら」
とすさみてつなじき天神のもりを、たづねてやどる。
里を去ること、一丁ばかり、松の林の中にあり。
春のよのやみはあななし梅のはな、いろこそ見えね、をりをりは、
よるのあらしにさそはれてすみのころもに、うつるまで、ほんのりにほふ。
石どうろうの火ハきらめき、うちよするなみのこゑも、つねよりは静かにきこゆ。
板じきのうへに、衣かたしきて、しばしまどろむかとすれバ、雲の上人とおぼしきが、
うすぎぬに、こきさしぬきてして、紅梅の一技をもちて、いづこともなくきたりたまふ。
こよひは花もよし、しづかにものがたりせんとて、うちよりぬるに、よるのことなれば、
けはひもさかにみえねども、ひさししくちぎり人のごとくにおもひ、むかしいま、
こころのくまぐまをかたあかすかとすれば、ゆめはさめぬ。
ありあけのつきに、浦風の粛々たるをきくのみ。手を折て、うちかぞふれば、
む月廿四日のよにてなんありける。(良寛さまの須磨紀行より)
昭和62年3月3日
大本山須磨寺頭正覚院 選文 谷川敏朗
書 加藤僖一
製作 速水史朗
建立 三浦真厳

上の写真は石碑の遠景で石碑の左側には阪神淡路大震災で亡くなられた方の
供養の碑があります。
須磨紀行というのは、良寛様(1758~1831)が備中玉島の曹洞宗円通寺をたって
郷土の越後に戻られるときに書かれた良寛様の旅日記で正式には関西紀行と呼ばれ
前半部が高野紀行、後半部が須磨紀行と呼ばれています。
時期については諸説があり、はっきりしていないようですが寛政8年(1796)説が
有力だと言われています。良寛さまが39歳のときの紀行文です。
平成3年(1991)5月、新潟県の糸魚川市(いといがわ)歴史民族資料館で、
幻の書といわれた「須磨紀行」が京都紀行とともに発見されたそうです。
よって関西紀行は3部作以上あることとなった。
by seiyo39
| 2010-08-27 07:10
| 神戸情報
|
Comments(2)
通りすがりの者です。
須磨紀行碑について気になったのでひとこと。
須磨紀行碑はその副碑に書、加藤僖一とあるように、その書は良寛研究で有名な加藤先生の手によるもののようです。
実際に幻と言われた須磨紀行の原文は糸魚川で発見されているのですが、どうして加藤先生の書を石碑に刻んだのか…それは句碑の建立が決定したのが、原文が発見されるよりも前だったから、やむなく加藤先生に頼んだということのようです。
ではなぜ原文が発見される前に、加藤先生は須磨紀行を書くことができたのか…それは知りません。
須磨紀行碑について気になったのでひとこと。
須磨紀行碑はその副碑に書、加藤僖一とあるように、その書は良寛研究で有名な加藤先生の手によるもののようです。
実際に幻と言われた須磨紀行の原文は糸魚川で発見されているのですが、どうして加藤先生の書を石碑に刻んだのか…それは句碑の建立が決定したのが、原文が発見されるよりも前だったから、やむなく加藤先生に頼んだということのようです。
ではなぜ原文が発見される前に、加藤先生は須磨紀行を書くことができたのか…それは知りません。
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