11月オープンに向けて工事進む旧武藤山治邸の復元工事 |
雨が降って、庭の芝生や、木も一息ついているところです。さて、
舞子浜で鐘紡中興の祖と讃えられた旧武藤山治邸の復元工事が11月の
一般公開に向けて急ピッチで進められています。
2010-9-4にその写真を撮りましたので紹介します。

上の写真は根上がりの松の植栽場所側から見た旧武藤山治邸の復元工事の様子です。
工事の様子については9月3日の神戸新聞朝刊でも紹介されています。
施工は飛騨の匠の技で知られる株式会社中島工務店。
もともとの建築の設計者は横河工務所に在籍し、国会議事堂などの官庁建築を
設計したことで有名な大熊喜邦氏です。
旧武藤山治邸=旧鐘紡舞子倶楽部は明治30年(1907)に建てられましたが、
1995年国道2号線の拡幅工事のため、同じ垂水区の狩口台に移築されていましたが
2007年にカネボウ(株)より寄贈を受けた兵庫県が貴重な明治期の建築遺産である
旧武藤山治邸を建築当初の姿に修復復元し、恒久的に保存しようとするものです。
詳細の問い合わせ先は下記のとおりです。
兵庫県 神戸県民局 神戸土木事務所 公園砂防課 078-737-2164

上の写真は西側からの旧武藤山治邸の全景です。

上の写真は東側からの旧武藤山治邸です。
円形のベランダがシートに隠れて見えないのが残念ですが、もう少しの辛抱です。
Wikipediaより要約引用による武藤山治氏(1867~1934)の紹介です。
「1867年4月5日(慶応3年3月1日) - 1934年(昭和9年)3月10日)は、
日本の実業家、政治家(社会党)。鐘紡社長、時事新報社社長などを務めた。
「日本的経営」「経営家族主義」「温情主義」の生みの親とされる。
岐阜県蛇池村(現海津市)出身。慶応義塾大学を卒業後、アメリカに留学し
帰国後佐久間から武藤に改姓、新聞広告扱い所を興す。「米国移住論」を著す。
三井銀行を経て、明治27年(1894)に鐘淵紡績に入社。
日本の民間企業として初めての外資を導入するほか、テイラーの科学的管理法など
新たな経営手法をいち早く導入し 鐘淵紡績の業績を立て直した。
大正10年(1921)に社長に就任。ワシントンで開催された第1回国際労働会議に、
使用者側日本代表として参加。「温情主義」について河上肇博士と論争。
大正13年(1924)、衆議院議員に当選。
昭和3年(1928)、ブラジル移民推進のために南米拓殖会社をつくる。
昭和5年(1930)、鐘紡社長を辞任し、議員活動に専念。
昭和7年(1932)、政界を引退。国民の政治教育のために私財を投じ、国民會舘を設立。
福澤諭吉が創刊した時事新報の社長になる。
昭和9年(1934)3月9日鎌倉の別邸を出たところで福岡県出身の失業者・福島新吉に
銃撃され、翌日死去。
武藤山治の没後、旧武藤山治邸は昭和12年(1937)に武藤家から鐘紡に寄贈され、
社員の厚生施設「鐘紡舞子倶楽部」として利用されていた。」
県立舞子公園周辺の邸宅群について、過去に記載投稿した小生のBlogにリンクしておきます。
1.移情閣(旧呉錦堂邸)
2.旧木下家
3.旧日下部邸
4.舞子ビラ(旧有栖川邸)現存していませんので舞子ビラに入っている寿司店の紹介です。