神戸大倉山公園の伊藤博文銅像台座 on 2010-10-18 |
散策中に伊藤博文銅像台座を発見しましたので写真紹介します。
(財)神戸市公園緑化協会による現地の説明書きより引用させていただきます。
「伊藤博文銅像台座
石材によるこの大きな造形物は、初代兵庫県知事・伊藤博文の銅像の台座です。
銅像は当初1904年、湊川神社本殿の横に設置されましたが、翌年、日露戦争
の講和条約の内容に激昂した群集に引き倒されてしまったそうです。
その後1909年、ハルピンで伊藤博文が暗殺された後、親交のあった大倉財閥の
創始者・大倉喜八郎が自身の別荘のあったここ大倉山に台座をつくり、改めて銅
像を再建し、あわせてこの地を公園として市民に開放する条件で神戸市に土地
と別荘を寄付しました。
当時は周辺に高い建築物も無く、銅像は神戸港を行き交う船からも見えたそうで
す。その後1942年、第2次世界大戦中に銅像本体は金属供出され、台座だけが
残り、現在に至っています。 (財)神戸市公園緑化協会」
上の4枚の写真が伊藤博文の銅像台座です。
ここに伊藤博文の銅像が建ったのは明治44年(1911)10月のことだそうです。
撮影年月日は不明ですが1911年から1945年までに撮影されたものである。
上の写真は大蔵山公園から観た神戸大学医学部付属病院の建物。
伊藤博文に関するサイト1(小生作成のサイト)
大倉喜八郎についてWikipediaより要約引用させていただきます。
「大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日(1837年10月23日) -
昭和3年(1928年)4月22日)は、日本の実業家。
中堅財閥である大倉財閥(おおくらざいばつ)の設立者。
明治・大正期の実業界の雄である。男爵。
越後国新発田(現新潟県新発田市)出身。鉄砲商から身を立て、
明治維新後は貿易会社、建設業に転身。化学、製鉄、繊維、食品などの
企業を数多く興した。戊辰戦争、台湾出兵、日清・日露と戦争軍需によって
大儲けしたことから死の商人、政商と呼ばれた。
軍事関係の需要は三井・三菱を凌いでほとんど大倉組が独占したという。
晩年は公共事業や教育事業には惜しみなく私財を投じた。
渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立したことでも有名。
東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。」
明治5年(1872) 大倉喜八郎はロンドンで岩倉遣欧視察団と会う
明治8年(1875) 安養寺山一帯は官有地になるがその後大倉喜八郎が購入し別荘とする。
明治43年(1910) 大倉喜八郎は大倉山を神戸市へ寄贈
伊藤博文に関するサイト2(小生作成のサイト)