網屋吉兵衛の顕彰碑 on 2010-9-29 |
撮影は2010-9-29
碑文には下記のように書かれています。
「天明5年(1785年)摂津八部郡二ツ茶屋村(現 生田区元町四丁目付近)に
生まれる。七十二才にして安永新田(現新港第一突堤付近)に
船蓼場(ふなたでば)=船底の貝殻や船虫などを焼く場所の建造に着手
苦節三年大願成就す。
文久3年(1863年)時の将軍家茂公が小野浜に上陸の際「この地は港に最適
でございます」と進言す。
後年この船蓼場は勝海舟の幕府海軍操練所となって神戸港の夜明けを迎え
今日の繁栄の基礎となる。明治2年9月九月五日天寿八十五才。
市民の碑 多くの市民の浄財にて建立す」
余生のときにこのような偉業を成し遂げた網屋吉兵衛に共感を覚えます。
日本地図を完成させた伊能忠敬とも共通するところがあるようにも思えます。
若年寄にならないように目標を持って生きたいと思います。
網屋吉兵衛. (2010, February 4). In Wikipedia. Retrieved 22:31, October 30, 2010, from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B6%B2%E5%B1%8B%E5%90%89%E5%85%B5%E8%A1%9B&oldid=30354889
上記のWikipediaより網屋吉兵衛氏の船蓼場の建設の苦労の様子を引用させていただきます。
「天明5年(1785年)、摂津国八部郡神戸二ツ茶屋村城下町(現在の兵庫県神戸市中央区
元町4丁目に生まれる。生家は呉服商であった。
11歳の時に兵庫三件屋町の荒物商・豊後屋に奉公に出た。奉公中に吉兵衛は
兵庫津の近辺に船蓼場(フナクイムシを駆除するための乾ドックのこと。船据場とも)
の建設を夢見るようになった(当時兵庫津に停泊する船がフナクイムシの駆除を行う
には讃岐国多度津にまで赴く必要があった)。20歳の時に奉公を終えて家業を継いだ
吉兵衛は船蓼場を建設する資金を得るために商売に精を出し、
弘化3年(1846年)に隠居。船蓼場建設に向けて行動を開始した。
吉兵衛は奉公中に建設を夢見て以来、数十年にわたり兵庫津近辺で潮の満ち引き、
海底の深さ、風が吹く方向を調べていた。
吉兵衛の家族は私財を投じての建設計画に反対したが吉兵衛は一切顧みず、
嘉永7年(1854年)9月に大坂谷町代官所の許可を得、神戸村安永新田浜の入江で
工事に着手した。安政2年(1855年)9月に船蓼場は完成した。
しかし工事には巨額の資金を要した上に海運不況に見舞われ、資金繰りに苦しんだ
吉兵衛は安政6年(1859年)、近江国の商人から呉服代金の未払いを理由に
江戸表の寺社奉行に訴えられる事態に見舞われた。
神戸村が仲介に入り、吉兵衛の借金(銀75貫800匁)を村が肩代わりする
代わりに船蓼場を村が引き取り、吉兵衛が10年以内に借金の元利金を返済した
際には船蓼場を返還することになった。吉兵衛は船蓼場の管理人として雇用された。
海軍操練所跡碑文永3年(1863年)、吉兵衛は小野浜において将軍徳川家茂に謁見した。
家茂は吉兵衛に対し小野浜近辺を日米修好通商条約に基づく開港場とすることの
是非について問い、吉兵衛はこの上ない適地であると回答した。
謁見を仲介した勝海舟は船蓼場を神戸海軍操練所に組み込んで活用し、
船蓼場の所有権を取り戻すことができるよう便宜を図ると約束したが、実現しなかった。
慶応3年(1867年)、兵庫港(現在の神戸港)開港に伴い、船蓼場は江戸幕府に
接収され東運上所(税関)の船入場として利用されることになった。
それに伴い10年以内に借金を返還すれば船蓼場を返還するという神戸村との
約束は消滅した。明治2年(1869年)9月5日、吉兵衛は死去した。
晩年は私財を投じて造った船蓼場が接収されたことを嘆き、死の間際も船蓼場の
ことを口にしていたという。」
上の縮図は明治5年(1872)の神戸の旧居留地付近の地図(兵庫県史 付図から)
ですが網屋吉兵衛が工事した船蓼場が真ん中から右下の丸印でそれにあたります。
人工の防波堤をもった施設であったことが判ります。
家茂は吉兵衛に対し小野浜近辺を日米修好通商条約に基づく開港場とすることの
是非について問い、吉兵衛は「この地は港に最適でございます」と回答した。
謁見を仲介した勝海舟は船蓼場を神戸海軍操練所に組み込んで活用し、
船蓼場の所有権を取り戻すことができるよう便宜を図ると約束したが、実現しなかった。
最適であると徳川家茂公の奏上したことを紹介している記事を下記サイトで紹介。
開港前後の神戸 の記事(7)天下様に土民