小野市の浄土寺訪問記 on 2010-11-30 |
大仏様(だいぶつよう)建築の浄土堂と仏師快慶の大作「阿弥陀三尊像」は特に
著名である。
小野 浄土寺の基本情報
住所:兵庫県小野市浄谷町2094 TEL:0794-62-2651
宗派:高野山真言宗 山号:極楽山 創建年代:鎌倉時代の建久年間(1190-1198)
開基:重源上人 正式な名前は俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)
Wikipediaによる解説HP(英文)
上の写真は駐車場の説明書きの写真でかっての伽藍を復元したイラストです。
現在は存在していない塔中(たっちゅう)寺院の大聖院(だいしょいん)、宝珠院(ほうしゅいん)
安養院(あんにょういん)、心王院(しんのういん)、中性院(ちゅうしょういん)、智明院(ちみょういん)
さらに現在ある宝持院(ほうじいん)の東側には名称不明の塔中寺院があったようです。
上の写真は同じく駐車場の説明書きの写真で浄土寺塔中寺院跡の礎石の発掘状況を
示した写真です。
上の写真も同じく駐車場の説明書きの写真で昔の伽藍の想定図です。
上の写真は現在残っている伽藍の配置図で左手が北側の方角になります。
記録によれば14院あったと伝えられています。
上の写真は著名な仏師快慶の大作「阿弥陀三尊像」が収容されている浄土堂(阿弥陀堂)。
堂は建久5年(1194)に上棟し、同8年(1197年)に完成供養を行ったと記録されている。
渡宋経験のあった重源は、大仏殿をはじめとする東大寺諸堂の復興や各地の
別所寺院の建築に際し、当時の中国(宋)の最新式の建築様式を採用した。
これが現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、
鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えたが、重源が手がけた大仏様建築で
現存するものは他に東大寺南大門と同寺開山堂のみである。
(以上 Wikipediaより引用)
上の写真は浄土堂の南側にある宝篋印塔で、非常に立派なものである。
上の写真は魔よけの獅子?のような動物の石像で同じく浄土堂の南側にあった。
上の写真は浄土寺鐘楼(Belfry)で寛永9年(1632)加東郡河合郷新部村粟津七右衛門
が建立したものである。和様を基調としながら唐様を混合した様式の建物である。
上の写真は現存する塔中寺院の歓喜院(かんきいん)の遠景である。
上の写真は郷社八幡神社。神社拝殿は延応元年(1239)に建てられたとされているが、
現存の拝殿は建て直されたものである。
上の写真は経堂。
上の写真は開山堂で創建は延応元年(1239)以降であるが。明応7年(1498)に
大火があり薬師堂とともに消失し、永正17年(1520)に上棟されたのが現在の堂である。
中には俊乗坊重源坐像が安置されているようです。
坐像胎内の墨書銘には天福2年(1234)に奈良からこの地に移され建長8年(1256)
に開山堂に安置されたと記載されているそうです。
上の2枚の写真は薬師堂。
当初の「薬師堂」は建久8年(1197)に上棟したと伝えられている。
その後焼失、現存の建物は永正14年(1517)に再建されたものだそうです。
上の写真は不動堂。
上の写真は八幡神社の本殿。
室町時代中期の代表的な3間社で向拝(ごはい)と身舎の間に虹梁(こうりょう)がなく
手挟(たばさみ)が配置されています。
上の写真は四国八十八箇所霊場めぐりの入口。
上の写真は八幡神社の前の狛犬。
上の写真は八幡神社の拝殿側から狛犬と浄土堂を撮ったもの。
上の写真は板碑(いたび)。古墳時代の石棺と同じ石材を使用して製作されたもの。
一番右のものはお地蔵様が彫られています。
真ん中のものは上部が欠けていますが碑面に阿弥陀三尊が死者を迎えにくる
来迎図が描かれています。左側の板碑には曼荼羅が刻まれています。
南北朝時代中期の作です。
一番右の地蔵石仏は南北朝時代中期の作で、角ばった顔と肩、首からU字型に垂れた
襟、長い柄の錫杖(しゃくじょう)をもった右手、宝珠をもった左手を表現しています。
一番左は曼荼羅の板碑で、鎌倉時代後期の作で金剛界曼荼羅を表現したものです。
上の写真は松尾芭蕉の句碑で「すずしさは 飛騨の匠の 指図哉」と書かれています。
芭蕉がこの地を訪れたという記録はなく、この句碑は芭蕉の俳諧における功績を
讃えて文化9年(1812)に建立されたものです。
上の写真は北側にある現存の塔中寺院「宝持院(ほうじいん)」の門。
上の写真は浄土堂を駐車場側から撮ったものでで、前の常夜燈は天明4年(1784)
加西郡の牛井邨吉の寄進によるものです。
重源上人 正式名:俊乗坊重源は治承4年(1180)12月28日平重衡により
焼き討ちとなった東大寺の大勧進職として還暦を過ぎてから25年間東大寺の
再建に注力した人物であり宋へも3回渡航しており、宋の建築様式も採用したと
伝えられています。
浄土寺の重源上人坐像は重源が仏師として重用した快慶の作であるという説も
あるようです。(作風が違うとして否定する意見の方が強い。)