神戸須磨 那須与一の墓 |
紹介します。
那須与一は遠く離れた扇の的を一本の矢で打ち抜いた人物としてだれでも
知っている人物です。
那須与一は仁安3年(1168)に那須の神田城で生まれました。
神田城は栃木県の小川町にあるようです。
父親は那須太郎資高(すけたか)で十一男であったため与一と呼ばれたようです。
那須与一宗隆(宗高)が正式な名前です。
源平合戦では兄9人は平家方につき宗隆(宗高)と兄の十郎為隆は源氏につきました。
兄の十郎為隆も罪人になったため那須与一宗隆(宗高)が寿永2年(1183)那須家
8万石の当主となりました。
元暦2年(1185)2月19日屋島の合戦で、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を
射落とすなど功績を挙げ、3月の壇ノ浦まで従軍後、東国に帰り源頼朝から
丹波・信濃など5カ国に荘園を賜った。
(丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・
備中国後月郡荏原荘)。
壇ノ浦の合戦後4年経過した文治5年(1189)8月京都の泉涌寺の前の即成院
に入った。ここで法然上人より得度し、蟄居することになりました。
ここ(即成院)にも那須与一の墓と伝えられている墓があります。
この頃から那須与一はハンセン病に罹り始めたとも言われる。
上の写真が神戸市須磨区妙法寺字円満林24-1板宿街道沿いの沿道にあります
那須与一の墓です。
那須与一の墓の架け板。
那須与一の墓を収容している上棟。昭和6年の建築で阪神淡路大震災後補修。
歴史研究家の那須義定氏などが主張する異説(越後那須氏)もある。これによると
那須与一は64歳まで生きこの地で死んだというものだそうです。
この説によれば、即成院での生活の後、越後に配流され、浮浪者同然の生活を
長年送る。そうこうしているうちに頼朝から受けた流罪が解かれ故郷の下野国
那須郷に向かう。乞食と見まちがうよな与一を縁者は受け入れられずまた村人
からも見放された与一はひとり庵を結び暮らすようになる。
僧として庶民を救うことがわが努めと思った与一は念仏僧として西国に向かう
こととなった。
与一はかって屋島の戦いで戦勝祈願した北向八幡神社にお礼をするために
須磨の地にきたが、この地で病が重くなり死去した。
那須与一が死去した後、地元の有志により那須神社が建立されました。
那須与一宗隆(宗高)の墓所に那須義定氏による詳しい年表があります。
栃木県大田原市には道の駅「那須与一の郷」があります。