兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地 の石碑 in 新川運河キャナルブロムナード |
兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地 の石碑の写真を撮りましたので紹介します。
石碑のある場所:神戸市兵庫区切戸町3キャナルブロムナード
キャナルプロムナードは平成5年(1993)3月に神戸市が整備竣工したものです。
まず、兵庫城について現地の説明書き(部分加筆)を中心に説明します。
説明板は兵庫県、神戸市、岡方協議会による作成
「天正8年(1580)、池田信輝と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって
兵庫の地を与えられてからは、兵庫はそれまでの室町幕府の権力を離れ、
東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の傘下に入った。
これを機会に池田氏は花隈城の遺材も加えて兵庫城を築いた。
その地点は、現在中央市場が建つ中之島・切戸町である。
東西、南北ともに140mの地域で、周囲には幅3.6mの堀があった。
元禄9年(1696)紺屋安右衛門(南仲町絵師) によって書かれた
摂州八部郡福原庄兵庫津絵図野中に御屋敷として堀に囲まれた図が残されて
います。
古来兵庫は1184年の源平合戦一の谷の戦い、1336年の湊川の合戦以降
たびたび大きな合戦が続き、そのつどひどい戦災を受けた。
兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。しかし信長・秀吉による全国統一
がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
兵庫城跡は江戸時代に入り元和3年(1617)、尼崎藩領となり、藩の陣屋となり、
明和6年(1769)、幕府 領となってからは、大坂町奉行所に所属して、
与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。」
上の写真は兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地 の石碑
上の写真は江戸時代の勤番所時代の絵。
明治時代に入ってからの兵庫城跡の歴史を辿ってみたいと思います。
「その後、慶応4年(1868)9月8日明治元年1月22日の城内に兵庫鎮台を設けたが、
その後2月2日兵庫裁判所と名が変わり、5月23日にまた兵庫県と改められた。
つまりここが最初の兵庫県庁である。
その後県庁は同年9月18日、今の神戸地方裁判所の場所に新築移転、
さらに明治6年5月現在地に移転した。
明治七年(1874)新川運河の開墾が行われ、城跡の中心地はほとんど川底に
なってしまった。 」
上の写真(2011-2-21撮影)は新川運河とキャナルブロムナード(左手)の遠景である。
大輪田ポンプ場方面から入江橋方面を撮りました。
江戸時代までの兵庫津は、平清盛による大輪田の泊の修復以降日宋貿易、日明貿易
などで順調に発展し江戸期には人口2万人程度になっていた。
舟入り場は2箇所あったものの、いづれも狭かったため明治7年(1874)に新川運河が
開削されることとなった。当初和田岬を迂回せずに兵庫に入港できるようにとの
計画であったが、資金難により半円形の運河となった。