高田屋嘉兵衛 本店の地の石碑 in 神戸市兵庫区西出町 |
竹尾稲荷神社から大通りの道路を隔てた位置(道路に面している)にあります。
地図をご覧ください。
高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)は明和6年1月1日(1769年2月7日) 、淡路島
(現在の兵庫県洲本市五色町都志村)の農民の子として生まれる。
寛政2年(1790)22才で兵庫の西出町に移り船子。
寛政4年(1792)24才で船頭。
寛政8年(1796)辰悦丸(1,500石船)を建造し、船持ち船頭となる。
西出町に諸国物貨物運漕高田屋嘉兵衛の看板をあげていた。
上方の塩、酒、綿糸などを積み込み日本海航路の阪田や越後でそれらを販売し
米を買い入れ蝦夷地で売るという商売が当たり巨万の富を得る。
寛政10年(1798)函館に出店を開き、函館の基盤整備に私財を投じた
寛政11年(1799)近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの幕府役人と接触し、
信を得て蝦夷地交易を許可される。
幕命で蝦夷地御用船頭となり択捉島への航路を開く
享和元年(1801)幕府より苗字帯刀を許されている
(蝦夷地常雇船頭に任じられる)
文化3年(1806)箱館の大火の折、被災者の救済活動と復興事業を率先して行う
文化9年(1812)幕府によりロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンが捕えられた報復として、
高田屋嘉兵衛は国後島で副艦長のリコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。
ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、
ロシア側を説得して翌年(1813)帰国。
文化10年(1813)帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無い
ことを納得させ、人質解放に尽力した。
日ロ双方に対し、献身的に折衝し、両国から賞賛された。
文政元年(1818)事業のすべてを弟の金兵衛に譲り、故郷の都志に隠居
故郷の港湾改修などに協力
文政10年4月5日(1827年4月30日)59歳で生涯を閉じる。
都志村の多聞寺に葬られている
撮影は2011-2-21