2011年 02月 28日
薬仙寺 on 2011-2-21 |
薬仙寺(兵庫七福神の寿老人)を2011-2-21に訪問しましたので写真
紹介します。
薬仙寺は行基が天平18年(746)に開山したと伝えられる時宗の寺院です。
我が国で初めて施餓鬼(せがき)修法が行われたと伝えられています。
開山当初は奈良六宗の一つ法相宗でしたが天台宗に改宗、貞治4年(1365)
直阿上人のときに時宗に改宗。以降現在の住職は31代目になります。
本尊は平安時代に造られた木造薬師如来坐像です。(国重文)
李氏朝鮮伝来の絹本着色施餓鬼図もあります。(国重文)
また後醍醐天皇に所縁のある寺で、後醍醐天皇が隠岐島から兵庫に着かれ、
付近の福厳寺逗留の折、ひどい頭痛になられたとき、薬仙寺の霊水を捧げると
頭痛が癒えたと言われています。
その後、後醍醐天皇から医王山の山号を与えられました。
現在も後醍醐天皇薬水薬師出現古跡湧水の碑があります。
他にも平清盛が後白河法皇を閉じこめたという萱御所跡の碑や
承元元年(1207)法然上人が讃岐に下るときにここに立ち寄り大衆を教化した。
文久元年(1861)兵庫港開港時にはイギリス初代公使オールコックの宿舎になる
など由緒のある寺院である。
最近では1945年3月17日の第2次世界大戦(15年戦争)戦災及び
1995年1月17日の阪神淡路大震災のモニュメントもあります。

上の写真は薬仙寺の境内遠景。


上の写真は戦災、震災モニュメント。
1945年3月17日の大空襲では500人を超すともいわれる市民が犠牲になった。
犠牲者の鎮魂の意を示すものである。


上の2枚の写真は後醍醐天皇の薬水の説明板と後醍醐天皇薬水薬師出現古跡湧水の碑

上の写真は十三重の塔。

上の写真は萱の御所跡碑。
説明板には「牢(楼)の御所」ともいい、白川法皇を幽閉した建物である(平家物語)。
運河の拡張工事によって水中に没するため、移設。北東方向約100m。
破損により現在の碑を再建」と書かれていました。
来年のNHK大河ドラマ平清盛が今年8月から撮影が始るということですが
必ず?ここが紹介されるのでは?。

上の写真は花山天皇の歌碑。
碑の文字は消えて判読できないのですが、「有馬富士ふもとの霧は海に似て
波かと聞けば小野の松風」と書かれているそうです。
説明板には次のように書かれています。
「第65代花山天皇(968-1008)は若くして妻を失い、また、藤原氏の策謀により退位し、
19歳で出家し三田市花山院に隠棲した。
こよなく大輪田の海を愛し、しばしばこの寺に滞留したと伝えられています。
その縁によっていつの頃かこの歌碑が建立されました。」
紹介します。
薬仙寺は行基が天平18年(746)に開山したと伝えられる時宗の寺院です。
我が国で初めて施餓鬼(せがき)修法が行われたと伝えられています。
開山当初は奈良六宗の一つ法相宗でしたが天台宗に改宗、貞治4年(1365)
直阿上人のときに時宗に改宗。以降現在の住職は31代目になります。
本尊は平安時代に造られた木造薬師如来坐像です。(国重文)
李氏朝鮮伝来の絹本着色施餓鬼図もあります。(国重文)
また後醍醐天皇に所縁のある寺で、後醍醐天皇が隠岐島から兵庫に着かれ、
付近の福厳寺逗留の折、ひどい頭痛になられたとき、薬仙寺の霊水を捧げると
頭痛が癒えたと言われています。
その後、後醍醐天皇から医王山の山号を与えられました。
現在も後醍醐天皇薬水薬師出現古跡湧水の碑があります。
他にも平清盛が後白河法皇を閉じこめたという萱御所跡の碑や
承元元年(1207)法然上人が讃岐に下るときにここに立ち寄り大衆を教化した。
文久元年(1861)兵庫港開港時にはイギリス初代公使オールコックの宿舎になる
など由緒のある寺院である。
最近では1945年3月17日の第2次世界大戦(15年戦争)戦災及び
1995年1月17日の阪神淡路大震災のモニュメントもあります。

上の写真は薬仙寺の境内遠景。


上の写真は戦災、震災モニュメント。
1945年3月17日の大空襲では500人を超すともいわれる市民が犠牲になった。
犠牲者の鎮魂の意を示すものである。


上の2枚の写真は後醍醐天皇の薬水の説明板と後醍醐天皇薬水薬師出現古跡湧水の碑

上の写真は十三重の塔。

上の写真は萱の御所跡碑。
説明板には「牢(楼)の御所」ともいい、白川法皇を幽閉した建物である(平家物語)。
運河の拡張工事によって水中に没するため、移設。北東方向約100m。
破損により現在の碑を再建」と書かれていました。
来年のNHK大河ドラマ平清盛が今年8月から撮影が始るということですが
必ず?ここが紹介されるのでは?。

上の写真は花山天皇の歌碑。
碑の文字は消えて判読できないのですが、「有馬富士ふもとの霧は海に似て
波かと聞けば小野の松風」と書かれているそうです。
説明板には次のように書かれています。
「第65代花山天皇(968-1008)は若くして妻を失い、また、藤原氏の策謀により退位し、
19歳で出家し三田市花山院に隠棲した。
こよなく大輪田の海を愛し、しばしばこの寺に滞留したと伝えられています。
その縁によっていつの頃かこの歌碑が建立されました。」
by seiyo39
| 2011-02-28 17:51
| 神戸情報
|
Comments(2)
後醍醐天皇が福厳寺に泊まられて置きながら、
わざわざ薬仙寺から水をとりよせたか?
ご利益とかの理由ではなく、
福厳寺で頭が痛くなったことを、
何かを盛られたと考えたようです。
そしてわざわざ薬仙寺より水を取り寄せたのが真実です。福厳寺は鎌倉幕府の菩提寺建長寺の関連で大覚という坊さんの流れで、後醍醐天皇は信用していなかった節があります。
鎌倉幕府は後鳥羽・後醍醐と二人の天皇を隠岐に
流していますが、
後鳥羽天皇が毎夜夢見て果たせないまま崩御された
「帰京」を後醍醐天皇は僅か一年余で実現されたのでしたね。
かって皇位にあった身で流人生活を送ったのはこの他、
淳仁天皇、崇徳上皇、土御門上皇、順徳上皇ですが、
配流地から脱出したのは後醍醐天皇だけですものね。
すざましいまでの執念の天皇です。
倒幕を掲げる後醍醐天皇が鎌倉方の密命を受けた使者
によって毒を盛られると考えられたとおもわれます。
わざわざ薬仙寺から水をとりよせたか?
ご利益とかの理由ではなく、
福厳寺で頭が痛くなったことを、
何かを盛られたと考えたようです。
そしてわざわざ薬仙寺より水を取り寄せたのが真実です。福厳寺は鎌倉幕府の菩提寺建長寺の関連で大覚という坊さんの流れで、後醍醐天皇は信用していなかった節があります。
鎌倉幕府は後鳥羽・後醍醐と二人の天皇を隠岐に
流していますが、
後鳥羽天皇が毎夜夢見て果たせないまま崩御された
「帰京」を後醍醐天皇は僅か一年余で実現されたのでしたね。
かって皇位にあった身で流人生活を送ったのはこの他、
淳仁天皇、崇徳上皇、土御門上皇、順徳上皇ですが、
配流地から脱出したのは後醍醐天皇だけですものね。
すざましいまでの執念の天皇です。
倒幕を掲げる後醍醐天皇が鎌倉方の密命を受けた使者
によって毒を盛られると考えられたとおもわれます。
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