平経俊塚 in 鎮守稲荷神社 |
撮影は2011-2-21
平経俊(たいらのつねとし)
仁安元年(1166年) - 寿永3年2月7日(1184年3月20日)
官位は、従五位下若狭守。
源義経(多田行綱)の坂落しにより鵯越で平家の軍勢は崩れていった。
戦いは朝8時ごろ始まり10時ごろには決着がついたと意われています。
平教経軍に属していた平経俊もたまらず長田の森から西出の浜に敗走、
海を目指したが源範頼の郎党・名和太郎に追い迫られ、
勇ましくも組み打ちとなったが当地で落命した。
寿永3年(1184)2月7日若干18歳の若武者である。
福原びんかがみでは平経俊塚は佐比江の堤にあり、目印の松が
あったとの記載あり、佐比江の埋立の頃鎮守稲荷神社に移設されたものと
思われます。
平経俊は平清盛の弟である平経盛の子で、兄弟は兄が経正、弟が敦盛である。
兄の経正は大蔵谷で源氏の侍荘ノ高家他3騎に追い詰められたため切腹。
弟の敦盛は熊谷直実との一騎うちで破れ戦死。
平経盛の子3人は全員一の谷の戦いで戦死したことになります。
明治になり太陽暦が採用され、以来3月7日を平経俊の命日として
御霊祭が執り行われている。
古来とくに守護神(夜泣きの神様)として信仰されている。
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平経正の塚は兵庫の琵琶塚という説もありますが、琵琶塚は古墳であり忠度塚を
経正の墳とした。
琵琶塚は平清盛塚にあります。
京都の仁和寺でも篤く回向されているそうです。