2011年 03月 02日
来迎寺(築島寺) 訪問記 in 2011-2-21 |
本日は来迎寺(築島寺)の写真紹介をします。
撮影:2011-2-21
来迎寺(築島寺)の基本情報
住所:神戸市兵庫区島上町2-1-3
宗派:浄土宗西山派 本尊:阿弥陀仏 山号:経島山
建立の由緒:二条天皇(平清盛の説もあり)が築島建設で功のあった松王丸の
菩提を永く弔うために建立され念仏道場とした
来迎寺(らいこうじ)、通称 築島寺(つきしまでら)の遠景。
お寺の塀には清盛七弁天の看板が。
上の写真は松王小児入海の碑。
説明板より要約引用させていただきます。
「二条天皇の御代(1158-1184)平清盛はわが国の貿易の中心地はこの兵庫である
との確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。
しかし潮流が早く非常な難工事で、完成寸前に押し流されることが二度に及んだ。
時の占い師は「これは龍神の怒りである。三十人の人柱と一切経を書写した経を
沈めると成就するであろう」と言上した。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え
通行の旅人を捕らえさせたが、肉親の悲嘆は大きかった。
この時、清盛の侍童で賀川の城主田井民部氏の嫡男17歳の松王が
「人柱のことは罪深い。自分一人を身代わりにして沈めた下さい」と申し出た。
応保元年(1161)7月13日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み築港造営は
完成した。
兵庫津の繁栄の礎となった事件であった。
松王小児入海の碑の右には妓王 妓女 (祇王と祇女)の五輪塔があります。
説明板より要約引用させていただきます
「妓王(ぎおう)と妓女(ぎじょ)は姉妹でともに堀川の白拍子であった。
平清盛の寵愛を受けて優雅な生活を送っていました。清盛のこころが
仏御前に傾くに及び世の無常をを嘆き京都嵯峨野に庵(今の妓王寺)を結び
母とともに仏門に入った。その後平家が壇ノ浦で滅亡した為、平家ゆかりの
兵庫の八棟寺(築島寺の末寺)に住持して一門の菩提を弔った。
境内には何故か珪化木の展示もしてあった。
上の写真は吉分大魯(よしわけだいろ)の句碑もあります。
「花鳥のそろえば 春のくるるかな」と書かれています。
「吉分大魯は江戸時代中期に活躍した俳人です。
享年は安永7年(1778)11月13日
もと今田文左衛門と称する阿波(徳島)藩士であったが,官職を辞して京都に出て
俳人となった。大坂勤番中に遊女と駆け落ちをして脱藩したという説もある。
与謝蕪村の門人であったが,かどかどしい性格が災いして同門の人々や門人と
融和してゆくことができず,そのために不幸な人生を歩んだ。
「我にあまる罪や妻子を蚊の喰ふ」という句に,つらい生活を強いた妻子に対する
自責の念もうかがえる。享年は49歳か。」
以上はKotobankからの引用。
撮影:2011-2-21
来迎寺(築島寺)の基本情報
住所:神戸市兵庫区島上町2-1-3
宗派:浄土宗西山派 本尊:阿弥陀仏 山号:経島山
建立の由緒:二条天皇(平清盛の説もあり)が築島建設で功のあった松王丸の
菩提を永く弔うために建立され念仏道場とした
来迎寺(らいこうじ)、通称 築島寺(つきしまでら)の遠景。
お寺の塀には清盛七弁天の看板が。
上の写真は松王小児入海の碑。
説明板より要約引用させていただきます。
「二条天皇の御代(1158-1184)平清盛はわが国の貿易の中心地はこの兵庫である
との確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。
しかし潮流が早く非常な難工事で、完成寸前に押し流されることが二度に及んだ。
時の占い師は「これは龍神の怒りである。三十人の人柱と一切経を書写した経を
沈めると成就するであろう」と言上した。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え
通行の旅人を捕らえさせたが、肉親の悲嘆は大きかった。
この時、清盛の侍童で賀川の城主田井民部氏の嫡男17歳の松王が
「人柱のことは罪深い。自分一人を身代わりにして沈めた下さい」と申し出た。
応保元年(1161)7月13日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み築港造営は
完成した。
兵庫津の繁栄の礎となった事件であった。
松王小児入海の碑の右には妓王 妓女 (祇王と祇女)の五輪塔があります。
説明板より要約引用させていただきます
「妓王(ぎおう)と妓女(ぎじょ)は姉妹でともに堀川の白拍子であった。
平清盛の寵愛を受けて優雅な生活を送っていました。清盛のこころが
仏御前に傾くに及び世の無常をを嘆き京都嵯峨野に庵(今の妓王寺)を結び
母とともに仏門に入った。その後平家が壇ノ浦で滅亡した為、平家ゆかりの
兵庫の八棟寺(築島寺の末寺)に住持して一門の菩提を弔った。
境内には何故か珪化木の展示もしてあった。
上の写真は吉分大魯(よしわけだいろ)の句碑もあります。
「花鳥のそろえば 春のくるるかな」と書かれています。
「吉分大魯は江戸時代中期に活躍した俳人です。
享年は安永7年(1778)11月13日
もと今田文左衛門と称する阿波(徳島)藩士であったが,官職を辞して京都に出て
俳人となった。大坂勤番中に遊女と駆け落ちをして脱藩したという説もある。
与謝蕪村の門人であったが,かどかどしい性格が災いして同門の人々や門人と
融和してゆくことができず,そのために不幸な人生を歩んだ。
「我にあまる罪や妻子を蚊の喰ふ」という句に,つらい生活を強いた妻子に対する
自責の念もうかがえる。享年は49歳か。」
以上はKotobankからの引用。
by seiyo39
| 2011-03-02 12:32
| 神戸情報
|
Comments(0)