2011年 03月 04日
古代大輪田泊の石椋(いしくら) |
新川運河の来迎寺(築島寺)近くの古代大輪田泊の石椋(いしくら)を写真紹介します。

上の写真(2011-2-21撮影)は古代大輪田泊(石椋)モニュメント整備と書かれた
花崗岩で平清盛の大輪田泊の整備に使用された花崗岩です。
詳しくは兵庫区役所と神戸市教育委員会が平成17年3月に作成した説明板よりの
引用文をご覧あれ。
「この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、
重量4トンの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。
当時は平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。
その後、この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、
平成15年確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から
平安時代の中頃の大溝と建物の一部が発見されました。このことより石材が
発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田の泊
の石椋の石材であったと推定されます。
石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと
考えられます。
その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、
松杭で補強し、堤を構築していたものと推定されます。
大輪田の泊は、平安時代のはじめに律令国家の菅理のもとに造営された泊(港)です。
当時、物資輸送や外交航路として重要視されていた瀬戸内海の航路と泊の整備が
進められていました。
当時の史料には泊の運営管理を行う官舎や石椋等の港湾設備が整備され、
中央政府から派遣された造大輪田船瀬(ぞうおおわだふなせ)(泊)使が泊の
造営や修築にあたり、修築後は国司(こくし)が運営管理を行っていた様子が
記されています。
また、承和3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新の文化や情報を
取り入れるための遣唐使船が暴風雨を避けるために寄港していることから、
このころには大型外洋船の寄港地としても整備されていたことが窺えます。」

上の写真は同じく上記の説明版の解説で石椋が積まれてどのように堤としたのかを
解説した図です。

上の写真は同じく上記の説明版の解説で石椋の発見場所や大輪田泊のあった場所
の推定位置です。
大輪田泊は行基の築造と伝えられ、平清盛が1180年に修築して日宋貿易後に
日明貿易の要港となった。
平氏滅亡後は、東大寺大勧進の重源{ちようげん}がその事業を引き継いで、
修築を行った。(1196年)
さらに兵庫津となって発展していった。

上の写真(2011-2-21撮影)は古代大輪田泊(石椋)モニュメント整備と書かれた
花崗岩で平清盛の大輪田泊の整備に使用された花崗岩です。
詳しくは兵庫区役所と神戸市教育委員会が平成17年3月に作成した説明板よりの
引用文をご覧あれ。
「この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、
重量4トンの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。
当時は平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。
その後、この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、
平成15年確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から
平安時代の中頃の大溝と建物の一部が発見されました。このことより石材が
発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田の泊
の石椋の石材であったと推定されます。
石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと
考えられます。
その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、
松杭で補強し、堤を構築していたものと推定されます。
大輪田の泊は、平安時代のはじめに律令国家の菅理のもとに造営された泊(港)です。
当時、物資輸送や外交航路として重要視されていた瀬戸内海の航路と泊の整備が
進められていました。
当時の史料には泊の運営管理を行う官舎や石椋等の港湾設備が整備され、
中央政府から派遣された造大輪田船瀬(ぞうおおわだふなせ)(泊)使が泊の
造営や修築にあたり、修築後は国司(こくし)が運営管理を行っていた様子が
記されています。
また、承和3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新の文化や情報を
取り入れるための遣唐使船が暴風雨を避けるために寄港していることから、
このころには大型外洋船の寄港地としても整備されていたことが窺えます。」

上の写真は同じく上記の説明版の解説で石椋が積まれてどのように堤としたのかを
解説した図です。

上の写真は同じく上記の説明版の解説で石椋の発見場所や大輪田泊のあった場所
の推定位置です。
大輪田泊は行基の築造と伝えられ、平清盛が1180年に修築して日宋貿易後に
日明貿易の要港となった。
平氏滅亡後は、東大寺大勧進の重源{ちようげん}がその事業を引き継いで、
修築を行った。(1196年)
さらに兵庫津となって発展していった。
2016-9-21追記
2015年10月17日の神戸新聞電子版の記事に
「摩耶埠頭(ふとう)(灘区)に神戸港100年を記念して記念碑が建てられたと記録がある。
記念碑は、縦に長い長方形の巨石。前面に「扇港百展」との銘板が埋め込まれている。
1980年8月に神戸市が発行した「市民のグラフこうべ」第95号。
神戸市のホームページから閲覧でき、特集「神戸港を築いた人々」の中で、
写真と共に記念碑の記事がある。」
摩耶ふ頭の記念碑こそ上記記載の石椋である。
摩耶埠頭に設置されていた際の銘板「扇港百展」は神戸港振興協会で保管されています
by seiyo39
| 2011-03-04 08:14
| 神戸情報
|
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