善光寺神戸別院境内の平業盛の碑 on 2011-3-14 |
写真紹介します。
撮影 2011-3-14
上の善光寺別院の正面入口の遠景です。
左手には会下山稲荷神社、鐘楼などがあります。
上の2枚の写真は平業盛の碑です。
平業盛(たいらの なりもり)についてWikipediaより引用させていただきます。
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title = "平業盛 --- Wikipedia",
year = "2010",
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note = "[Online; accessed 21-March-2011]"}
嘉応元年(1169年)? - 寿永3年2月7日(1184年3月20日))は、
平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の弟平教盛(のりもり)の三男。
兄弟に通盛、教経、忠快らがある。官位は従五位下蔵人。
寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦いにおいて17歳で戦死。
その時の戦いぶりについて、『源平盛衰記』にはその最期の様子が、
以下の通りより詳しく描かれている。即ち、源義経の逆落としの奇襲に
よって大混乱に陥った平家軍は海上の船団に向かって敗走しはじめた。
業盛は馬上、渚に佇んでいたところを泥屋四郎吉安に組みかかられ、
双方馬から落ちて上になり、下になりながら組み合っているうちに
古井戸に落ちてしまった。
業盛が上になって四郎の首を搔こうとするが、そこへ泥屋五郎が
助けに現れて、業盛に兜に取りついた。業盛は振りほどこうとして、
五郎は兜をつかんだまま投げ飛ばされた。だが、業盛は手負いに
なっており、五郎は起き上がると業盛の首を取り、兄を井戸から
引き上げた。
このとき業盛は17歳で、その力の強さに人々は感心したという。
訪問時(2011-3-14)の境内の白梅を撮りました。
上の写真(石碑)には、蔵人大夫(くろんどのたいふ)平業盛之塚と書かれています。
この文字は兵庫の先賢神田兵右衛門によって書かれたものだそうです。
平家物語 第九巻 浜軍(はまいくさ)に門脇殿の末子、蔵人大夫業盛は、
常陸国の住人、土屋五郎重行と組んで討たれ給ひぬと討ち死にしたことが
語られています。
塚と小さな祠には夫々に新鮮な花が飾られていました。
平家物語八坂本の記述では泥屋五郎が比気(ひき)五郎となっている。