2011年 03月 29日
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町 散策記 その1 ジョセフ・ヒコの銅像 |
山陽電鉄播磨町駅を下車すると徒歩2分圏内に播磨町役場、公民館、図書館
商工会などがあります。
播磨町公民館の正面玄関の脇に、本日写真紹介しますジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の
銅像があります。 撮影はすべて2011年3月26日(土)です。
この銅像は1980年4月12日に播磨町ライオンズクラブが寄贈したものです。
新聞の父 ジョセフ ヒコ の像と書かれています。
像のアップ写真です。
上の写真はヒコの略歴を刻んだものです。
ジョセフ(Joseph Heco)について播磨町での13年間の詳細について、
調べていないのでよく判りませんがWikipediaでの解説を引用させていただきます。
(一部加筆)
「浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、旧字体:濱田彦藏、天保8年8月21日(1837年9月20日)
- 明治30年(1897年)12月12日)は幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる。
洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)。幼名は彦太郎(ひこたろう)。
帰国後は「アメ彦」の通称で知られた。
播磨国加古郡阿閇(あへ)村古宮(現・兵庫県加古郡播磨町)で生まれる。
幼い頃(1841年 彦太郎4歳)に父を、嘉永3年(旧暦で5月18日=1850年6月27日)、
彦太郎13歳の時に母を亡くす。
その直後に義父の船(住吉丸)に乗って海に出て
途中(熊野 久喜または九鬼)で知人の船である栄力丸に乗り換えて
江戸に向かう航海中、その船が10月29日(11月22日)に
紀伊半島の大王岬沖で難破。(彦蔵が14歳の時である)
2ヶ月太平洋を漂流した後、12月21日(1852年1月22日)に南鳥島付近で
アメリカの商船・オークランド号に発見され救助される。 」
オークランド号はサンフランシスコに到着(1852年3月4日)し20日間ほどが
過ぎた頃、ポーク号という船に乗り換えさせられボルチモアのマークスという記者
がやってきてネゲレオタイプ(銀板写真法)で写真が撮られました。
下の写真(Wikipediaより)が濱田彦蔵=ジョセフ ヒコの14歳の写真です。
この写真をもとにスケッチされた姿が1953年1月22日のイラストレイテッド・ニューズ
という新聞に日本人の水夫たちという見出しのついた記事で報道されました。
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の解説 By Wikipedia(英文)
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)はギネスブックに残るようなはじめ物語が多数
ありますので紹介します。
1)日本人として禁教後最初にキリスト教の洗礼を受けた。
1854年10月30日 USA ボルチモアの教会
名前は Cathedral of The Assumption B.V.M
B.V.Mはラテン語でBeata Virgo Maria出英語では
Blessed Virgin Maryとなり聖少女マリアと直訳できる。
この教会は1806年に建てられたものであるが現在もある由緒ある
教会である。
2)日本人として初めてUSAの大統領(ブキャナン大統領)と合う
1857年 11月25日
1962年3月12日にはリンカーン大統領とも会っています。
3)日本人として初めてアメリカの市民権を得る
1858年6月30日
4)日本人で初めて6,000mの深さの海底を調査。
1858年9月~11月 測量船の小帆船 クーパー号(ブルック艦長)
5)日本のアメリカ領事館で初めての日本人通訳
1859年 5月29日 事前に駐日公使ハリスと上海で合流
6)日本で初めて新聞 海外新聞を発刊
1864年6月28日
7)初めての国立銀行条例をつくる。
1872年渋沢栄一の下で英国人のシャンド(Alexander Allan Shand)
と協働でつくった。
8)神戸で初めての電灯にヒコの精米所の蒸気機関が使用される。
1884年12月
9)日本人初めての英文の自伝書 The narrative of a Japaneseを発刊
上巻は1892年 下巻は1895年に刊行
上記書籍の購入に関する情報
関連Blog1 ハワイのJoseph heco Society
関連Blog2 小生のBlog
関連Blog3 小生のBlog
商工会などがあります。
播磨町公民館の正面玄関の脇に、本日写真紹介しますジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の
銅像があります。 撮影はすべて2011年3月26日(土)です。
この銅像は1980年4月12日に播磨町ライオンズクラブが寄贈したものです。
新聞の父 ジョセフ ヒコ の像と書かれています。
像のアップ写真です。
上の写真はヒコの略歴を刻んだものです。
ジョセフ(Joseph Heco)について播磨町での13年間の詳細について、
調べていないのでよく判りませんがWikipediaでの解説を引用させていただきます。
(一部加筆)
「浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、旧字体:濱田彦藏、天保8年8月21日(1837年9月20日)
- 明治30年(1897年)12月12日)は幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる。
洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)。幼名は彦太郎(ひこたろう)。
帰国後は「アメ彦」の通称で知られた。
播磨国加古郡阿閇(あへ)村古宮(現・兵庫県加古郡播磨町)で生まれる。
幼い頃(1841年 彦太郎4歳)に父を、嘉永3年(旧暦で5月18日=1850年6月27日)、
彦太郎13歳の時に母を亡くす。
その直後に義父の船(住吉丸)に乗って海に出て
途中(熊野 久喜または九鬼)で知人の船である栄力丸に乗り換えて
江戸に向かう航海中、その船が10月29日(11月22日)に
紀伊半島の大王岬沖で難破。(彦蔵が14歳の時である)
2ヶ月太平洋を漂流した後、12月21日(1852年1月22日)に南鳥島付近で
アメリカの商船・オークランド号に発見され救助される。 」
オークランド号はサンフランシスコに到着(1852年3月4日)し20日間ほどが
過ぎた頃、ポーク号という船に乗り換えさせられボルチモアのマークスという記者
がやってきてネゲレオタイプ(銀板写真法)で写真が撮られました。
下の写真(Wikipediaより)が濱田彦蔵=ジョセフ ヒコの14歳の写真です。
この写真をもとにスケッチされた姿が1953年1月22日のイラストレイテッド・ニューズ
という新聞に日本人の水夫たちという見出しのついた記事で報道されました。
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の解説 By Wikipedia(英文)
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)はギネスブックに残るようなはじめ物語が多数
ありますので紹介します。
1)日本人として禁教後最初にキリスト教の洗礼を受けた。
1854年10月30日 USA ボルチモアの教会
名前は Cathedral of The Assumption B.V.M
B.V.Mはラテン語でBeata Virgo Maria出英語では
Blessed Virgin Maryとなり聖少女マリアと直訳できる。
この教会は1806年に建てられたものであるが現在もある由緒ある
教会である。
2)日本人として初めてUSAの大統領(ブキャナン大統領)と合う
1857年 11月25日
1962年3月12日にはリンカーン大統領とも会っています。
3)日本人として初めてアメリカの市民権を得る
1858年6月30日
4)日本人で初めて6,000mの深さの海底を調査。
1858年9月~11月 測量船の小帆船 クーパー号(ブルック艦長)
5)日本のアメリカ領事館で初めての日本人通訳
1859年 5月29日 事前に駐日公使ハリスと上海で合流
6)日本で初めて新聞 海外新聞を発刊
1864年6月28日
7)初めての国立銀行条例をつくる。
1872年渋沢栄一の下で英国人のシャンド(Alexander Allan Shand)
と協働でつくった。
8)神戸で初めての電灯にヒコの精米所の蒸気機関が使用される。
1884年12月
9)日本人初めての英文の自伝書 The narrative of a Japaneseを発刊
上巻は1892年 下巻は1895年に刊行
上記書籍の購入に関する情報
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by seiyo39
| 2011-03-29 08:48
| 神戸以外の兵庫県
|
Comments(1)