2011年 05月 01日
西求女塚古墳(求女塚西公園)訪問記 on 2011-4-30 |
昨日(2011-4-30)西求女塚古墳(現求女塚西公園)の写真を撮ってきましたので
紹介します。
西求女塚古墳の基本情報 (Wikipedia、現地説明板より引用)
読み方:にしもとめづかこふん
所在地住所:神戸市灘区都通3丁目1
墳丘の形式:前方後方墳 大きさ:全長約95m
建設された時期:3世紀後半
主な出土品: 三角縁神獣鏡 7面 、画文帯神獣鏡 2面 、神人龍虎画像鏡 1面
半肉彫獣帯鏡 2面 、鉄製品 230点、碧玉紡錘車形石製品 1点
土師器 14点 、織物残欠 2点 、土師器残欠 179点
石室石材 54点
場所の地図は下記のとおり。 阪神西灘駅の南東200m 求女塚西公園内
周辺の地区は味泥(みどろ)と呼ばれています。
神戸史学会編の神戸の町名では味泥は「文安4年(1447)の天城文書にミトロと出てくる
古い地名である。深泥(みどろ)つまり低湿地のこと。敏馬(みぬめ)の崎が突き出しその東
の入江に西郷川が流れ込んでいた。川尻は土砂で埋まりやがて沼地になっていった。
2005年(平成17年)、出現期古墳の様相を示す重要な古墳の1つとして国の史跡に指定された。

上の写真は後方部です。丸い形で整備されておいるが、昭和60年(1985)以降継続的に
行われた発掘調査で、古墳時代前期では最大級の前方後方墳であったことがわかり、
墳丘に葺石をともなっていることも判明した。

上の写真の手前は前方部です。
神戸市教育委員会の第12次調査の記録に詳しい形状が載っています。
神戸市教育委員会のサイト


上の2枚の写真は求女塚西公園の南東の公園入口にある88箇所の観音さまや
五輪塔、墓石、祠、お地蔵さまなど通常のお寺にあるものが祀られていました。
万葉集 田辺福麿呂
語りつぐからにも 幾許(ここだ) 恋しきを
直目(ただめ)に見けむ 古壮士(いにしへおとこ)
西求女塚古墳は処女塚・東求女塚とともに万葉集や大和物語などに登場する悲恋伝説
「菟原処女の伝説」の舞台としても知られている。
昔、小竹田男(ささだおのこ)と血沼丈夫(ちぬのますらお)という二人の青年が
菟名日処女(うないのおとめ)に恋をして、二人は同時に恋文を送りました。
女はどちらにも靡かず、生田川のオシドリを射当てた人に従うと答えますが、
すると二人の矢は同時に鳥を射止めます。
女は悩み抜いて川に身を投げ、その遺体は塚に築きこめられました。
その後、男たちも互いに刺し違えて死んだという…。
彼ら三人を葬った墓が処女塚と東西の求女塚の古墳だと言われています。
これら3つの古墳は大体等間隔で並んでいます。
また、謡曲「求女塚」などにも登場する古墳です。
追伸:
住所である都通は宮子=巫女ではないかとの説があります。
菟原処女(うはらおとめ)または卑弥呼などとも関連し興味深い名前である。

上の写真は平成4年(1992)から平成5年(1993)にかけての第5次調査出土の、
邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から贈られた鏡ともいわれる三角縁神獣鏡7面など
計11面の銅鏡(第1次調査の1面とあわせて合計12面)で、ベンガラや水銀朱により
真っ赤に塗られた形跡が見られます。
(神戸考古学 BEST50 神戸市教育委員会、神戸市埋蔵文化財センターより)
慶長の大地震(1596)で石室ごと崩壊したため、盗掘を免れ出土したと見られる。
考古学者白石太一郎先生の著書「古墳の語る古代史」岩波現代文庫(2000年11月)
によれば西求女塚古墳の埋葬者は当時、中部・関東の諸地域で勢力をもっていた
狗奴国連合に属する土地の首長であったと推測される。
西求女塚古墳 第5次~第7次調査結果(データベース)
紹介します。
西求女塚古墳の基本情報 (Wikipedia、現地説明板より引用)
読み方:にしもとめづかこふん
所在地住所:神戸市灘区都通3丁目1
墳丘の形式:前方後方墳 大きさ:全長約95m
建設された時期:3世紀後半
主な出土品: 三角縁神獣鏡 7面 、画文帯神獣鏡 2面 、神人龍虎画像鏡 1面
半肉彫獣帯鏡 2面 、鉄製品 230点、碧玉紡錘車形石製品 1点
土師器 14点 、織物残欠 2点 、土師器残欠 179点
石室石材 54点
場所の地図は下記のとおり。 阪神西灘駅の南東200m 求女塚西公園内
周辺の地区は味泥(みどろ)と呼ばれています。
神戸史学会編の神戸の町名では味泥は「文安4年(1447)の天城文書にミトロと出てくる
古い地名である。深泥(みどろ)つまり低湿地のこと。敏馬(みぬめ)の崎が突き出しその東
の入江に西郷川が流れ込んでいた。川尻は土砂で埋まりやがて沼地になっていった。
2005年(平成17年)、出現期古墳の様相を示す重要な古墳の1つとして国の史跡に指定された。

上の写真は後方部です。丸い形で整備されておいるが、昭和60年(1985)以降継続的に
行われた発掘調査で、古墳時代前期では最大級の前方後方墳であったことがわかり、
墳丘に葺石をともなっていることも判明した。

上の写真の手前は前方部です。
神戸市教育委員会の第12次調査の記録に詳しい形状が載っています。
神戸市教育委員会のサイト


上の2枚の写真は求女塚西公園の南東の公園入口にある88箇所の観音さまや
五輪塔、墓石、祠、お地蔵さまなど通常のお寺にあるものが祀られていました。
万葉集 田辺福麿呂
語りつぐからにも 幾許(ここだ) 恋しきを
直目(ただめ)に見けむ 古壮士(いにしへおとこ)
西求女塚古墳は処女塚・東求女塚とともに万葉集や大和物語などに登場する悲恋伝説
「菟原処女の伝説」の舞台としても知られている。
昔、小竹田男(ささだおのこ)と血沼丈夫(ちぬのますらお)という二人の青年が
菟名日処女(うないのおとめ)に恋をして、二人は同時に恋文を送りました。
女はどちらにも靡かず、生田川のオシドリを射当てた人に従うと答えますが、
すると二人の矢は同時に鳥を射止めます。
女は悩み抜いて川に身を投げ、その遺体は塚に築きこめられました。
その後、男たちも互いに刺し違えて死んだという…。
彼ら三人を葬った墓が処女塚と東西の求女塚の古墳だと言われています。
これら3つの古墳は大体等間隔で並んでいます。
また、謡曲「求女塚」などにも登場する古墳です。
追伸:
住所である都通は宮子=巫女ではないかとの説があります。
菟原処女(うはらおとめ)または卑弥呼などとも関連し興味深い名前である。

上の写真は平成4年(1992)から平成5年(1993)にかけての第5次調査出土の、
邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から贈られた鏡ともいわれる三角縁神獣鏡7面など
計11面の銅鏡(第1次調査の1面とあわせて合計12面)で、ベンガラや水銀朱により
真っ赤に塗られた形跡が見られます。
(神戸考古学 BEST50 神戸市教育委員会、神戸市埋蔵文化財センターより)
慶長の大地震(1596)で石室ごと崩壊したため、盗掘を免れ出土したと見られる。
考古学者白石太一郎先生の著書「古墳の語る古代史」岩波現代文庫(2000年11月)
によれば西求女塚古墳の埋葬者は当時、中部・関東の諸地域で勢力をもっていた
狗奴国連合に属する土地の首長であったと推測される。
西求女塚古墳 第5次~第7次調査結果(データベース)
by seiyo39
| 2011-05-01 12:24
| 神戸情報
|
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